近年、歯車装置が高負荷運転されるようになってきており、それに伴い歯車の歯面の剥離損傷が多発するようになってきている。このような損傷は、歯車の稼働がそれ以上不可能となるものであり、重大事故にも繋がりかねない深刻な問題である。
具体的に、大荷重で運転される通常の歯車では、駆動歯車の歯元歯面は相手歯車(被動歯車)の歯先エッジによって切り込まれる。この際、多くの摩擦屑が発生し、これらが歯面にかみ込まれて歯面を損傷させる。また、歯先の切り込みによって生成される歯元歯面の段差部にかみ込まれた摩擦屑が衝突し、歯面剥離の引き金となるマイクロ亀裂が生じる。一方、駆動歯車の歯先エッジはかみ合い外れ時に相手歯車の歯元歯面を強く擦り、その際に発生する大きな接触応力と高熱のために歯先エッジの欠け(チッピング)が発生する。すると、剥離屑やチッピング屑がかみ合う歯車の歯面や歯車装置のベアリング等の機構部品にかみ込まれる。その結果、装置全体の劣化や損傷が加速され、最終的には事故の発生に繋がることになる(非特許文献1参照)。図1に歯車に生じた損傷の実例を写真で示す。図1(a)は、歯面のフレーキング損傷に至った例を左右に二つ示したものであり、図1(b)は、歯の部分欠損例を示したものである。図1(c)は、はすば歯車のかみ合い始め部分のピッチング損傷とそこから始める歯面剥離例を示したものであり、図1(d)は、駆動歯車の歯先エッジのチッピング損傷例を示したものである。
このような問題は、本技術分野において従来から認識されているところであり、非特許文献1には、「歯車装置の競争力強化に必要な事項と解決すべき課題」として、我が国の歯車装置が将来にわたり強い国際競争力を維持していくためには、1)耐久性・信頼性向上、2)運転時の振動・騒音性能向上、3)動力伝達効率の向上、4)トラブル未然防止、5)コスト低減、の全てにわたり歯車装置に関する技術革新を行って行く必要がある、と述べられている。そして、設計・製造技術全般を向上させ圧倒的な競争力を構築していく基盤は、『従来の方法で設計された歯車よりも高強度にする設計・製造技術』であるとされている。すなわち、歯車に関する上述したような剥離損傷対策としては、「従来設計手法で対処できない損傷の未然防止」が目的ではあるが、損傷現象が十分に解明されていない現状においては、的確な損傷防止策が構築されていない場合の現実的な対処策として、歯車の超高強度化が目指され鋭意研究・開発されているのが本技術分野の趨勢である。
例えば、特許文献1では、歯車における歯面の高強度性と歯元の靭性というそれぞれの強度特性を両立させるべく、浸炭処理後の冷却や加熱等の処理によって歯面と歯元とで炭化物の分散析出率、窒素濃度分布、オーステナイト量分布に差を付ける、分散析出する炭化物を球状ないし擬球状とするなどして、歯面を歯元よりも高硬度とするとともに、歯面の耐ピッチング性と耐摩耗性、歯元の曲げ疲労強度と耐衝撃性を兼ね備えた高強度歯車を提供する、とされている。同文献に記載の技術は、上述したような歯車の高強度化を目指す取り組みの一例であるといえる。
歯車そのものを超高強度化するという研究開発の方向性自体は、歯車の損傷を防止し性能を高める方策の一つではあるものの、結局のところ、駆動歯車と被動歯車の双方の歯先エッジの強い接触によって歯面損傷並びにそれが進展した結果としての歯の部分欠損等を生じてしまう現象の根本解決に至るものとは言い難い。このような損傷を避けるための一策として、歯のエッジを滑らかに丸めるという方法が考えられる。しかしながら、歯車の全歯のエッジの空間的な存在の仕方は単純ではないため、滑らかに丸めるための加工は容易ではなく、航空機用や競争自動車駆動用といった加工に要する費用よりも歯車の絶対性能を追求する必要がある特殊な用途にのみ適用できるものであって、低コストでの製造が求められる歯車全般にまで用いることができる技術であるとはいえない。
そこで本発明者は、非特許文献1において「現状では損傷現象が十分に解明されていない」とされていた歯車における損傷剥離の発生メカニズムを次の通り仔細に研究し、これまで本技術分野では検討されてこなかったアプローチにより、製造コストをほとんど上昇させることなく稼働中の損傷を著しく低減させることができる歯車とその製造方法について発明するに至ったものである。
本発明の説明に先立って、本発明者の研究により明らかになった歯車の剥離損傷メカニズムについて説明する。まず、図2は、インボリュート曲線の歯形の接触が起こる駆動・被動歯車の基礎円の共通内接線(作用線ともいう)を示したものである。機構学上の歯車の幾何理論(歯のかみ合い理論)では、同図中の線分ABの中ほどの位置に既に接触している歯の対があり、その接触点が歯車の回転運動によりこの線上を上の方(Aの方向)に動いていき、それにつれて次の歯面がB点に来てそこで新たな歯がかみ合い状態に入る、と教えている。しかしながら、図中の上側にある既にかみ合っている歯の対が負荷により大きな撓みを生じていると、当然ながらその撓みの分、被動歯車は駆動歯車に対して回転遅れを生じる。その結果、新たにかみ合いに入る歯は、歯車のかみ合い理論で教えるかみ合い開始点であるB点よりも以前のC点で接触を始めることになる。この現象は、歯車軸直角断面において、現実のインボリュート歯形の理論的正規位置に対する位相差が原因であり、歯に歯筋クラウニング、片当たり、ピッチ誤差等が存在する場合にも生じるものである。
C点で新たにかみ合いに入る歯同士の接触が始まる直前の状態では、既にかみ合っている歯が全荷重を受け持っているために、その分撓んでおり、駆動歯車に対する被動歯車の回転遅れが生じている。C点で新しくかみ合いに入った被動歯車の歯は、歯先のエッジが接触する状態であるので、この接触部分が分担する力は、既にかみ合っている歯が受け持っている力に比べて極めて小さい。歯の接触がC点からB点に至るまでの間、すなわち、駆動歯車に対する被動歯車の回転遅れが原因で歯先の角が相手歯元に強く接触する状態(トロコイド干渉)では、この干渉を起こしている歯の受ける反力は、既に歯面がかみ合っている歯の対の受けている力に比べて十分に小さく、また、その状態の持続する時間或いは歯車回転角の進みは僅かであるので、トロコイド干渉中のC点からB点までの接触点の移動は、駆動歯車に対する被動歯車の回転遅れ量が殆ど変化しないほぼ変位強制の状態で進行する。このような状態を、相手歯車の歯先エッジによる歯元歯面の攻撃の様子の模式図として図3の上段に示す。
同図に示すように、歯車の回転の進行に伴い、相手歯先は歯元歯面に対してトロコイド曲線を描いて近付く。ここでは便宜上、歯車同士のかみ合い始めの状態について限定して説明するが、かみ合い終わりでも同図上段と同様の状態が発生し、かみ合い始めの状態に対して接触点の移動方向が逆になり、以下の説明中の用語「かみ合い始め」を「かみ合い終わり」に読み替えることで、かみ合い終わりの状態をかみ合い始めの状態と同様に説明することができる。さて、このトロコイド曲線が歯元歯面に食い込む状態になれば、歯先エッジが歯元歯面に強く接触するトロコイド干渉の状態になる。歯車の歯には全歯幅に亘り歯面をうまく当てるため、歯幅中央で歯形曲線をわずかに前方に、歯の両側端では後方に位置するようにクラウニング(歯筋クラウニング)と称するマイクロ歯面形状修整加工が施される。同図では、駆動歯車の歯形を3本の線で示しており、図中右側に隣接する歯に繋がった中央の線が基準となる正面歯形、外側の線が歯幅中央部の歯形、内側の線が歯の両側端における歯形をそれぞれ示している。そしてこの場合、歯幅中央部でトロコイド干渉が大きくなる。図3(a)の下段に示す写真ではその状態で歯幅の中央部の歯元歯面が相手歯車の歯先エッジにより強く攻撃されている状態を示している。このように、歯筋クラウニングが与えられた歯車において、歯幅の中央部で大きなトロコイド干渉が起きる結果、歯元歯面には歯筋クラウニングの形状に対応してかみ合う相手歯先の攻撃を受け、歯元歯面が強く損傷し始めている状態が認められる。その一方で、歯の両側端ではトロコイド干渉が起こっていないことが分かる。このような状況は、歯車の歯のかみ合いの進行につれて常に起こっている。図3(b)の写真では、トロコイド干渉部から歯面剥離が生じている状態が示されている。図3(a)及び(b)の写真を比較すると、歯元歯面におけるトロコイド干渉部が損傷し始めてから歯面剥離が生じるメカニズムが一目瞭然である。
このような接触状態の駆動歯車の歯面における接触応力の変化の様子を図4に模式的に示す。同図には、歯先と歯元に大きな接触応力が発生し、その接触箇所の歯面の相対滑りも大きいために発熱し、また、表面に働く剪断力が大きいために、損傷が極めて発生しやすくなるという状態が描かれている。具体的には、同図中の歯面接触のヘルツ応力の状態を模式的に示す曲線の通り、新しく相手歯面との接触を開始するC点からB点までのトロコイド干渉領域ではエッジと面との接触のため接触応力が急激に大きくなり(図中、太い一点鎖線で示す)、B点から歯先方向にかけては、相手歯面との面と面との接触になるため接触面積が大きいことから、接触応力が小さくなるが、歯先に到達すると自由端である歯先エッジが相手歯面とかみ合う状態となり、接触楕円の面積の減少に対応して接触応力が大きくなる。このような状態により、図1に示したような歯車の損傷が発生しているのである。一方、本技術分野において世界の全ての国々で現在使われている歯面耐久力評価法では、歯面と歯面の接触がその理論的根拠であり、トロコロイド干渉が全く考慮されていないため、実質的には歯元のC点から歯先に至る手前までの図中太矢印で示した領域が有効範囲となっている。すなわち、C点からB点までの間の歯元と歯先についてはその有効範囲外である。すなわち、多くの実用歯車で経験される破壊的な剥離損傷は、歯面耐久力評価法の有効範囲外、つまり歯先エッジと歯元歯面の接触から起こることが多く、従来の歯面耐久力評価法の想定外の接触応力が歯元と歯先に発生することが原因で、その引き金(トリガー損傷)が生じていることが本発明に先立つ研究により明らかとなってきた。
ここで、歯車の歯元と歯先における想定外の接触応力の発生による損傷の例を示す。図5(a)は、はずば歯車を重荷重で耐久運転し、未だ歯車寿命には達していない中間段階での歯面状態を示す写真である。このはすば歯車には、歯筋にクラウニングを与えていたため、歯先エッジとの接触のために相手歯車の歯幅中央部の歯元でトロコイド干渉が発生し、激しい凝着摩耗が起こって歯車の損傷が進行中である状態が示されている。図5(b)は、乗用車駆動用歯車を耐久運転した例において、未だ歯車寿命には達していない中間段階での歯面状態を、アセチルセルローズに転写するレプリカによって観察した写真である。はすば歯車の歯先エッジと歯元のかみ合い開始部分の歯面が白くなっているが、これは相手歯車の歯先エッジとの接触のために表面粗さが潰されて滑らかになった状態が示されている。このかみ合い開始点を拡大したものを図5(c)に示す。相手歯車の歯先エッジとの高圧・高滑りの接触の結果、その接触箇所の応力状態が材料の耐力を超え、微細なピットとクラックが発生し始めているのが認められる。これらのトリガー損傷はその後、図1(c)に示したような損傷に発展するが、図5(c)はその前段階である。図5(d)は、相手歯先の攻撃により大きく発熱し、凝着摩耗を起こしている駆動歯車の歯元歯面を示す写真である。凝着摩耗を起こしている部分は写真では白く見えている。その下の歯面は、高温になったため、潤滑油がスラッジ化して付着している。凝着摩耗を起こした歯面は高温のために焼き戻されて硬度が低下し、損傷を極めて起こしやすくなり、歯車損傷のポジティブフィードバック系の挙動が進展している状況にある。図5(e)は、図1(a)左図に示したフレーキング損傷を生じた歯面のレプリカ画像であり、損傷が相手歯車の歯先エッジとのかみ合い部から発生したことが明確に確認できる。
以上に示したような歯車の損傷は、硬い歯先エッジがそれよりも柔らかい相手歯車の歯元歯面を攻撃するために発生するものである。従来、歯車の強度を高めるためには歯面硬度を高くすることのみが目指されてきた。歯車の強度を高めるために採用される最も一般的な浸炭焼入れ法は、歯の表面から炭素を拡散させ、その硬度を上げるものであり、この方向に沿った歯車熱処理方法である。この処理時において、歯のエッジは歯面に比べて多方面に表面を有し、その全ての面から炭素が浸入するため、一方の面からしか炭素が侵入しない歯面よりもどうしても硬く、且つ脆くなる傾向が避けられない。したがって、その硬いエッジが相手歯車の歯面を攻撃したため、上述したような損傷が発生しやすくなっていたと考えられる。すなわち、一定の均質な硬度となるように製造した歯車であっても、各部を微視的に捉えると、歯先エッジの方が歯元歯面よりも硬いという硬度差が存在し、その傾向は硬度を上げるために浸炭焼入れを施した場合は特に顕著であるといえる。
一方、このような損傷発生の状態から論理的に考えると、歯先エッジの硬度がそれとかみ合う相手歯車の歯元歯面よりも低くなれば、このような損傷は大幅に少なくなることが予想される。歯先エッジの硬度を低くするような歯車の製造方法の一つとしては、例えば特許文献2に記載されているような、歯面に母材よりも硬度が低い材料でコーティングを施すという方法が考えられる。しかし、同文献に記載された技術の目的は、表面の硬度が母材の硬度よりも低いコーティング層と母材との密着性を向上させることで、歯面に圧縮残留応力を付与するためにショットピーニングを行っても母材とコーティング層とが容易に剥離せず、歯面に圧縮残留応力を付与する、というものであり、歯車の歯元と歯先における想定外の接触応力の発生による損傷を防止することについては同文献には示唆されていない。そして、歯面の耐久力を向上させる目的を達するために、歯面中央部(歯面の歯先側と歯元側の中間部位)に母材よりも硬度が低い材料で被覆したコーティング層を形成し、このコーティング層においては外面側から母材側に向けて硬度が母材に近くなるように硬度に傾斜(変化)を持たせ、この歯面中央部のコーティング層の厚さと表面厚さを均等にするために、歯先側と歯元側には均質な低硬度の(母材よりも軟質な)コーティング層を形成している。しかしながら、単に歯先エッジの硬度を歯元歯面の硬度よりも低くする目的で、歯先側の歯面にのみ母材よりも軟質なコーティング層を形成した場合を想定すると、このような歯車をかみ合わせて稼働させた場合、歯先エッジにおいてはコーティング層が容易に剥離してしまい、硬度の高い母材が露出し、歯車の損傷を引き起こす結果に繋がることになる。
以上の問題に鑑みて、本発明は、かみ合い状態にある歯車同士の歯先エッジと歯元歯面における損傷の原因を根本的に解決すべく、そのような損傷を大幅に減少させることができる新しい着想に基づく歯車と、斯かる歯車を殆どコスト上昇させることなく製造することができる製法とを提供することを主たる目的とするものである。
すなわち本発明は、歯車装置を構成する歯車において、各歯において焼き戻しにより軟化させた状態の歯先エッジ部の硬さが、相手歯車の歯元歯面の硬さよりも柔らかいことを特徴とする歯車である。
また、本発明は、歯車装置を構成する歯車において、各歯において焼き戻しにより軟化させた状態の歯先エッジ部の硬さが、同じその歯の歯元歯面の硬さよりも柔らかいことを特徴とする歯車である。
すなわち本発明では、各歯の歯先エッジ部の硬さは、相手歯車の歯元歯面の硬さとの比較において柔らかいものであってもよく、その歯先エッジ部と同じ歯車の歯元歯面の硬さとの比較において柔らかいものであってもよく、その両方を満たすものであってもよい。以下、特に限定することなく「歯元歯面」という場合には、相手歯車の歯元歯面とその歯車自体の歯元歯面の両方に共通するものであるとする。本発明の対象となる歯車には、平歯車、はすば歯車、かさ歯車、ねじ歯車、ハイポイド歯車、内歯歯車、ラック・ピニオン、ウォーム・ウォームホイール等、あらゆる種類の歯車が該当し、駆動歯車と被動歯車の両方が含まれる。また、トロコイド干渉が生じない歯車でも、歯先エッジ部が相手歯車の歯元歯面に接触する歯車全般について、本発明は有効である。本発明において歯先エッジ部は、各歯の歯先エッジを含んで歯先面から歯形方向の歯面にかけての限局された一定の領域(特に歯形方向へは歯先エッジから約0.7mm以内の範囲)を指していうものとする。なお、歯車における各部の硬さ(硬度)は、各測定ポイントごとに僅かにバラツキがあるため、歯先エッジ部と歯元歯面における硬さ(又は柔らかさ)とは、それらに含まれる領域の複数ポイントで測定された硬度の平均値によって評価することとし、以下に述べる各発明の説明においても同様とする。
このような本発明の歯車では、歯車同士のかみ合い始めにおいて、駆動歯車の歯元歯面にそれよりも柔らかい被動歯車の歯先エッジ部が接触し始めると、相対的に硬度が低い被動歯車の歯先エッジ部が自然に潰れて(塑性変形して)丸められるため、駆動歯車の歯元歯面、特に従来の歯面耐久力評価法における有効範囲外で生じていたため対策がなされていなかったかみ合い限界点における剥離損傷を容易に予防することができることになる。一方、歯車同士のかみ合い終わりにおいては、被動歯車の歯元歯面にそれよりも柔らかい駆動歯車の歯先エッジ部が接触し始めると、相対的に硬度が低い駆動歯車の歯先エッジ部が自然に潰れて(塑性変形して)丸められるため、被動歯車の歯元歯面、特にかみ合い限界点におけるチッピング損傷を容易に予防することができることになる。すなわち、本技術分野のこれまでの傾向であった硬度上昇とは逆に、動力伝達に直接関わることがない歯先エッジ部を積極的に柔らかいものとして、歯先エッジ部が歯車稼働開始直後から相手歯車の歯元歯面の硬さに負けて自動的に丸められるようにすることで、トロコイド干渉を抑制することができるため、歯元歯面の損傷を大幅に減少させることができるようになるのである。もちろん、丸められた歯先エッジ部の欠損等の損傷も生じにくくなる。このような技術によれば、歯車寿命を長くし、歯車装置を組み込んだ装置の故障原因も減少させることができる。なお、駆動歯車及び被動歯車の歯先エッジ部及び歯先面は、歯車装置における動力伝達には殆ど関与しないため、相手歯車の歯元歯面との接触により丸められるなどの変形が生じても、歯車装置の稼働には影響を及ぼすことがなく、本発明により歯先エッジ部の損傷や欠損を防止できることは歯車装置の延命に大いに寄与するものである。また、本発明の歯車では、金属母材を露出させるようにしていることから、歯面に母材よりも柔らかい材料をコーティングしたものと比較して、コスト的にも安価に製造することができ、歯車装置の稼働によるコーティング層の剥離という問題も回避することができる。
本発明の歯車において、歯元歯面よりも柔らかい歯先エッジ部は、焼き戻しされた状態のものである。なお、歯車の製造工程において、歯車全体を焼入れ・焼き戻しされることが通常であることから、その工程の後に、歯先エッジ部のみを更に焼き戻すことで、焼き戻しされた状態の歯先エッジ部が得られる。焼き戻しは、焼入れによってマルテンサイト化して硬く脆くなった鋼組織を再加熱することで硬さを調整し、柔らかくさせながら組織に粘りや強靱性を与える工程として常用されているが、通常は部品全体(本発明であれば歯車)に対して、あるいは軸物であればその部品の一部に対して施される熱処理であり、歯先のエッジといった部品の極く一部(局所)のみを焼き戻すということは通常行われることはない。本発明では、歯先エッジ部のみを焼き戻しされた状態とすることで、歯先エッジ部のみを選択的に柔らかく、粘りと強靱さを持った性質とすることで、歯元歯面に対して柔らかい歯先エッジ部を備えた歯車とすることができる。
本発明においては、歯元歯面に対する歯先エッジ部の硬さは、有意差が認められる90%以下が必要であり、50%以上とすることが好ましく、70%以下50%以上であれば歯先エッジ部が歯元歯面との接触により容易に丸められやすくなるため望ましい。歯元歯面に対する歯先エッジ部の硬さの下限を50%としたのは、50%未満にまで低下させることは製造工程上、困難であるためである。
本発明において、歯元歯面において歯先エッジ部と硬さが比較される最も適切な部位は、相手歯車とのかみ合い限界点近傍の歯面とすることが望ましい。この相手歯車とのかみ合い限界点とは、本発明では、各歯の歯元歯面において、新たにかみ合い状態に入る相手歯車の歯先が歯車のかみ合い理論上最も歯底方向に近寄って接触し得る歯元位置を指していうものとする。
本発明の歯車の製造方法としては、焼入れ後の歯車に対する各歯の歯先エッジ部を対象に、焼き戻しによる歯先エッジ部軟化処理工程を経ることにより、歯先エッジ部の硬さが歯元歯面の硬さよりも柔らかい歯車を製造する方法が適している。
歯先エッジ部軟化処理工程では、各歯の歯先部を特異的な対象とした熱処理を行うことが好適であり、それに適した焼き戻し方法の1つとしては、歯先エッジ部に対する高周波誘導加熱による焼き戻し方法を挙げることができる。この場合、歯車の歯先の近傍に高周波誘導加熱コイルを配置し、このコイルに歯車の材質に応じた温度及び時間条件下で通電することで歯先エッジ部を加熱した後、自然冷却することにより歯先エッジ部を焼き戻して軟化させる方法を採用することができる。
本発明の歯車は、歯先エッジ部を相手歯車の歯元歯面、又はその歯車の同じ歯の歯元歯面よりも焼き戻しによって柔らかくしたものである。それにより、歯車装置を稼働させることで歯先エッジ部が相手歯車の歯の歯元歯面と接触して塑性変形を起こし丸められることになるため、歯同士のかみ合い始めとかみ合い終わりにおいてトロコロイド干渉が大幅に抑制されることになり、従来の歯面耐久力評価法における有効範囲外で生じていた歯元歯面での剥離損傷が防止され、同時に歯先エッジ部の破損も防止できる結果、歯車寿命を大幅に延ばし、歯車装置やそれを組み込んだ装置の故障も防止することができる。また、高周波焼き戻し法等を利用して歯先エッジ部を局所的に加熱して軟化させる工程を経ることで、本発明の歯先エッジ部のみを軟化させた歯車を低コストで製造することができる。
以下、本発明の一実施形態を、図面を参照して説明する。
本実施形態では、本発明の歯車1を適用した駆動歯車11及び被動歯車12からなる歯車装置Xの一例と、その歯車1(以下、駆動歯車11及び被動歯車12を総称する場合は「歯車X」と呼ぶこととする。)の製造方法の数例を説明することとする。ここでは説明を簡略化するため、歯車装置Xとして一対の歯車1(説明を簡単にするため、駆動歯車11及び被動歯車12は共に平歯車であるとする。しかし、この説明は全ての歯車に有効なものである。)を例に挙げ、そのかみ合い部分を拡大した断面図として図6に示している。
図7(a)に製造直後の歯車1(駆動歯車11及び被動歯車12)の一部の歯の正面歯形を部分的に拡大して示すように、この歯車1は、各歯10の歯先エッジ部10aが歯元歯面10bよりも柔らかく製造されたものである。同図では歯車1の一部の歯10のみを示しているが、歯先エッジ部10aと歯元歯面10bの硬さの関係は、全ての歯10について同じである。また、駆動歯車11と被動歯車12は、各歯10における歯先エッジ部10aと歯元歯面10bの硬さの関係も共通である。ここで、本実施形態において歯先エッジ部10aとは、各歯10の歯先エッジ101を含んで歯先面102から歯形方向の歯面103にかけての限局された一定の領域であると定義しており、特に歯形方向へは歯先エッジ101から一定の範囲(約0.7mm以内の範囲)を指すものとする。この歯先エッジ部10aは、通常利用されている歯面耐久力評価法の歯先側の有効範囲外である。
このように、各歯10の歯先エッジ部10aが歯元歯面10bよりも柔らかい、すなわち、歯車10の歯先エッジ部10aは、相手歯車10(駆動歯車11に対する被動歯車12、被動歯車12に対する駆動歯車11)の歯元歯面10bよりも柔らかいため、駆動歯車11と稼働歯車12とをかみ合わせてこの歯車装置Xを稼働し始めると、その直後から相手歯車の硬い歯元歯面10bに食い込むことなく接触した歯先エッジ部10aは自然に塑性変形し、図7(b)に示すように丸められることとなり、それ以降、相手歯車の歯元歯面10bが剥離損傷を受けることがなく、同時に歯先エッジ部10aが欠損するなどの損傷を受けることがなくなる。
次に、本実施形態の歯車1の製造方法、特に常法通りに歯切り・熱処理された後、本発明において特徴的な歯先エッジ部10aのみを柔らかくするための歯先エッジ部軟化工程の数種について説明する。なお、この工程は、歯面の最終仕上加工の前あるいは後に入る場合がある。本実施形態で説明する歯先エッジ部軟化工程では、一般的な高周波焼入れと同様に高周波電源を利用して対象物を誘導加熱し、焼き戻し処理を行うが、通常の高周波焼入れ法や高周波焼き戻し法と顕著に異なる点は、処理対象である歯車1の歯10の全体を加熱するのではなく、歯先エッジ部10aのみを局所加熱する点である。
まず一例目として、円形コイル20によって歯車1の各歯10における歯先エッジ部10aのみを軟化させる歯先エッジ部軟化工程について説明する。図8に断面図として示すように、処理対象である歯車1の歯先面102の外側近傍に、歯先円10cよりも僅かに直径の大きい円形コイル20を、歯車軸1zと略同心となるように配置する。円形コイル20は、図示しない高周波電源に接続されており、円形コイル20に通電することで、歯先を対象として加熱する。その際、各歯10の歯先に対する電磁誘導加熱の状態ができるだけ平均化させるために、歯車軸1zを中心として歯車10を回転(図中矢印方向)させながら円形コイル20への通電を実行することが望ましい。この場合、高周波周波数、印加電圧・電流のほか、歯車1の回転に伴う歯先円10cと円形コイル20の内周20aとのギャップ差の関数として、歯先エッジ部10aは略正弦波の時間経緯で加熱されてゆくこととなる。若干の時間経過後、歯先エッジ部10a付近の温度分布が適切になった時点で通電を止めると、歯先は雰囲気中への放熱と歯車10の内部への熱伝導により自然冷却され、歯先エッジ部が焼き戻されて軟化することとなり、歯先エッジ部軟化工程が終了する。
この例では、歯車1として平歯車に対する歯先エッジ部軟化工程について説明したが、歯幅が広い歯車1の場合であって、円形コイル20では歯車10の全体を同時且つ一斉に加熱できないときには、円形コイル20を歯車軸1zと平行に移動させながら加熱したり、この操作を複数回繰り返すようにしてもよい。また、円形コイル20に代えて、コイルを断面真円形状からズレた形状としたり、多角形状とすることも可能であり、その場合には歯車10を回転させながら加熱することが好適である。さらに、円形コイル20は切れ目のない断面円形状とすることができるが、歯車10に対する円形コイル20の設置を容易にするために、一部を切り欠いた円形コイルや、一部に切れ目やヒンジを設けて開閉できるようにした円形コイルを利用することも可能である。
歯先エッジ部軟化工程の二例目は、板状コイルを用いて歯車1の歯先に対する焼き戻し処理を行う例である。この例では、図9に示すように、高周波電源に接続した1つの板状コイル21を用いており、一例目の円形コイル20と同様に、板状コイル21を歯車1の歯先面102の外側近傍に、歯先円10cから僅かに離すようにしている。この状態で歯車1を回転(図中矢印方向)させながら板状コイル21に高周波通電すると、板状コイル21が発生する磁界近傍を歯先が通過する際に歯先エッジ部10aが加熱され、すぐに自然冷却されるという略パルス状に温度変化する状態が繰り返される。この例の場合、歯車1の回転速度を変化させると加熱時間を調整することが可能であり、最適の歯先エッジ部10aの焼き戻し条件を設定することが容易となる。そして、所定の回転数又は回転時間の経過後、歯先エッジ部10a付近の温度分布が適切になった時点で通電を止めると、歯先は雰囲気中への放熱と歯車10の内部への熱伝導により自然冷却され、歯先エッジ部が焼き戻されて軟化することとなり、歯先エッジ部軟化工程が終了する。この例の歯先エッジ部軟化工程の利点は、板状コイル対21に対する歯車1の設置が極めて容易であることが挙げられる。
歯先エッジ部軟化工程の三例目は、2枚の板状コイルを用いて歯車1の歯先に対する焼き戻し処理を行う例である。この例では、図9に示すように、それぞれ高周波電源に接続した2つの板状コイル22a,22aからなる一組の板状コイル対22を用いており、各板状コイル22aを歯車1の例えば直径方向に対向配置し、一例目や二例目の場合と同様に、各板状コイル22aを歯車1の歯先面102の外側近傍に、歯先円10cから僅かに離すようにしている。この状態で歯車1を回転(図中矢印方向)させながら各板状コイル21aに高周波通電すると、各板状コイル22aが発生する磁界近傍を歯先が通過する際に歯先エッジ部10aが加熱され、すぐに自然冷却されるという略パルス状に温度変化する状態が繰り返される。この例で、2つの板状コイル22a,22aを被処理歯車(歯車1)の直径の180度対応位置に配置することにより、歯車1の偏心等が当該歯車1の各歯10の加熱状態を不均一にする影響をなくすることができる。また、各板状コイル22aに、異なる周波数の高周波電源を接続することができる。それにより、板状コイル22a、22aごとに通電時の電圧と電流の周波数を変えることによって、歯先部の材料中(歯車1の内部)の渦電流熱源の深さや、発熱の歯先エッジ部10aへの集中程度等を変化させ、歯先エッジ部10a付近の温度分布をより適切に調整することが可能である。一方、歯車1の直径の両側位置に配置される2つの板状コイル22a、22aが発生する磁界が等しくなるよう、両板状コイル22a,22aに同じ電圧で等しい周波数の等しい高周波電源が用いることもできる(両板状コイル22a,22aを共通の高周波電源に接続するとよい)。これにより、各板状コイル22aと歯車1の歯先円1cとの間の距離の変動が歯先部の発熱に及ぼす影響がキャンセルされ、歯車1の偏心や、歯車1の設置位置の不正確さに関わらず、全ての歯先が均等に加熱される状況を作ることができる。この例の場合、歯車1の回転速度を変化させると加熱時間を調整することが可能であり、最適の歯先エッジ部10aの焼き戻し条件を設定することが容易となる。そして、所定の回転数又は回転時間の経過後、歯先エッジ部10a付近の温度分布が適切になった時点で通電を止めると、歯先は雰囲気中への放熱と歯車10の内部への熱伝導により自然冷却され、歯先エッジ部が焼き戻されて軟化することとなり、歯先エッジ部軟化工程が終了する。この例の歯先エッジ部軟化工程の利点は、板状コイル対21に対する歯車1の設置が極めて容易であることが挙げられる。
第二例目と第三例目のように、板状コイルを利用する歯先エッジ部軟化工程では、板状コイルの数を1つ以上で実施できることから、任意の複数個の板状コイルを適用することができる。その例として歯先エッジ部軟化工程の四例目も、板状コイルを用いて歯車1の歯先に対する焼き戻し処理を行う例であるが、この例では、図11に示すように、それぞれ高周波電源に接続した二組の板状コイル対23,24を用いている点で、上述した三例目と異なる。この四例目では、板状コイル対23を構成する一対の板状コイル23a,23aと、板状コイル対24を構成する一対の板状コイル24a,24aを、それぞれ歯車10の直径方向に90度の角度位相を変えて対向配置し、一例目から三例目までと同様に、各板状コイル23a,24aを歯車1の歯先面102の外側近傍に、歯先円10cから僅かに離すようにしている。この場合、板状コイル対23と板状コイル対24とで通電時の電圧と電流の周波数を変えることによって、歯先部の材料中(歯車1の内部)の渦電流熱源の深さや、発熱の歯先エッジ部10aへの集中程度等を変化させ、歯先エッジ部10a付近の温度分布をより適切に調整することが可能である。この例と同様に、一対の板状コイルからなるコイル対をさらに増加させることもできる。
以上のような歯先エッジ部軟化工程では、次に実施例で説明するように、ごく短時間の加熱によって歯先エッジ部を焼き戻しすることができ、その方法も簡便であることから、通常の歯車1の製造工程に歯先エッジ部軟化工程を加えるだけであり、大きなコストアップを招来することなく、損傷の少ない歯車1を製造することができる。なお、以上に説明した歯先エッジ部軟化工程では、平歯車を対象とした歯先エッジ部10aの軟化処理について説明したが、これらの例では断面円周方向に沿って歯が形成された歯車全般について適用することができる。また、内歯歯車の場合には、歯が形成されている歯車の内周側に配置したコイルで加熱したり、ラックの場合には板状コイルで加熱するなど、種々の高周波焼き戻しによる方法で歯先エッジ部軟化工程を実施することができる。さらに高周波焼き戻し法以外にも、歯車の歯先エッジ部のみをターゲットとしてレーザー照射することにより加熱し、その後自然冷却させることで、局所的な歯先エッジ部軟化工程を実施することも可能である。いずれの方法による歯先エッジ部軟化工程であっても、歯車の材質に応じて、通電する時間や電圧や周波数、加熱温度等を適宜設定すればよい。
ここでは、本発明における歯車の製造方法のうち、まず上述した実施形態における高周波焼き戻し法による歯先エッジ部軟化工程の原理について説明し、続いてサンプル鋼片を用いた実証試験について説明する。
上述の実施形態における歯先エッジ部軟化工程では、一般的な高周波焼入れと同様に、高周波誘導により対象物である歯車、特に歯車の歯先エッジ部をターゲットとして加熱する。歯車の歯先部に高周波交流通電コイルによる交番磁界を作用させると、歯車の歯の歯先近傍の材料中に渦電流が発生するが、この渦電流はスキン・エフェクトによりエッジ部に集中し、電磁誘導加熱シミュレーション結果である図12に示すようにエッジ部の温度を上昇させる。同図では、後述する皿ばね2をサンプル鋼片とした焼き戻し試験における2つの焼き戻し条件(以下、条件I及び条件IIという)において、円形コイル20による皿ばね2の右半部の温度分布を示している。その温度上昇の程度は、対象物の大きさ、形状、コイルまでの距離、電源周波数、通電時間、歯車の鋼材種によって決まる。このような温度分布になった状態で加熱を止めると、加熱された部分は自然冷却されて次第に温度が下がる。歯先部内部の硬さ分布は、歯車の歯の内部の各点の温度が時間の経過に伴いどのように変化していくかの状況と、歯車の材料の冶金学的特性との関数として決まってくる。
図13は、共析炭素鋼の連続冷却変態線図(CCT線図、図中の実線)の一例を示したものである。ここで、歯先エッジ部軟化工程で対象としている歯車の鋼材の焼入れ性を示す恒温変態線図(TTT線図)が、同図の右半分に点線及び実線Ps(パーライト変態の開始線)、Pf(パーライト変態の完了線)のS字カーブであるとする。また、歯先部の材料中の各点の温度変化は、700℃より少し上の位置から放物線状に低下している一点鎖線で示した定速冷却曲線で表される。歯先部の内部のある点における温度が最も左側の定速冷却曲線のように急速に変化すると、この点は焼入れされて硬度が上昇することを意味している。それに対して右側2本の定速冷却曲線のようにゆるやかに温度が低下すると、この点は焼き戻されて硬度が低下することを意味している。なお、同図中に示した記号Ac1は加熱時にオーステナイトが生成し始める温度を、Msは冷却の間にオーステナイトがマルテンサイトに変態し始める温度を、M50%とM90%は、冷却の間にオーステナイトの50%と90%がマルテンサイトにそれぞれ変態する温度を、それぞれ意味している。
次に、歯車の歯先エッジ部を模したビッカース硬度650(Hv650)程度の硬さのサンプル鋼片を図12のように高周波誘導加熱し、擬似的な歯先エッジ部の焼き戻し実験を行った。サンプル鋼片は、図14に平面図(同図(a))及び縦断面図(同図(b))で示したような皿ばね2を採用しており、この皿ばね2の上面(凹面)側における内径エッジ部2aを、歯車1における歯10の歯先エッジ部10aと見做している。実験では、皿ばね2の内径よりもやや小さい外径を有する円形コイル20により、皿ばね2を回転させながらその内径エッジ部2aを集中的に高周波誘導加熱することにより、内径エッジ部2aの焼き戻しを行い、硬さや焼き戻しされた範囲の程度を調べている。焼き戻し条件は、図15に示したような条件I、条件IIの2種類としており、両条件で周波数、陽極電圧、陽極電流の値を等しくし、加熱時間だけを条件Iでは0.9秒、条件IIでは1.0秒として差を設けている。この結果、図示しないが、条件Iで高周波焼き戻し処理を行った皿ばね2の外観観察から、凹面側における内径エッジ部2aにテンパカラーが認められ、その範囲は内径エッジから直径方向に1.4mmまで至っていた。
まず、高周波焼き戻しによる皿ばね2の断面硬さの変化について調べた。焼き戻し前の皿ばね2と、条件I、条件IIによる焼き戻し処理後の皿ばね2の3種類(全て同等製品)について、それぞれ直径方向で切断し、図16に示すように、各皿ばね2の左半部2Aと右半部2Bのそれぞれについて、凹面から0.1mm内部、内径エッジから直径方向に0.2〜0.6mmの範囲では0.2mm間隔、0.6〜3.0mmの範囲では0.3mm間隔の位置に測定点(図中、黒丸で示す)を設定し、各測定点における断面硬さをマイクロビッカース硬度計(荷重2.9N、5秒)により測定した結果を、図17に断面硬さ変化図として示す。焼き戻し前の皿ばね2の断面硬さは600〜650Hvの値を示した。条件Iの高周波加熱による焼き戻し後では、内径エッジ部2a付近では400Hv程度の硬さまで低下させることができた。一方、条件Iよりも0.1秒だけ加熱時間を長くした条件IIの高周波加熱による約戻し後では、ほとんどの測定点で条件Iよりもやや硬い結果が得られた。なお、条件Iの場合、左半部2Aの内径エッジ部2a近傍では、極端な硬さの上昇が発現したが、これは皿ばね2と円形コイル20との位置関係、回転と加熱(通電)とのタイミング、焼き戻し条件等により、焼入れが生じたものと推察される。また、条件I、条件IIのいずれでも、円形コイル20から遠位となる測定点では、焼き戻し前の硬さに近い600〜650Hvであったことから、これらの測定点では円形コイル20による高周波焼き戻しが全くなされていないという結果が得られた。この実験と同様に、他にも数種類の焼き戻し条件で実験した結果、円形コイル20を用いた焼き戻し処理により、焼き戻し前に650Hv程度の硬さの内径エッジ部2aは、400Hv程度(焼き戻し前の60%程度)の硬さまで局所的に低下させ、内径エッジ部から離れた所の硬度は全く変化させないことができるという知見が得られた。
次に、皿ばね2の内径エッジ部2aの断面硬さの分布状況を詳細に測定した。前述した高周波焼き戻しによる皿ばね2の断面硬さの変化の測定試験と同様に、条件Iで焼き戻し処理した皿ばね2を直径方向で切断し、図18に示すように(皿ばね20の右半部2Bの断面における内径エッジ部の測定点のみを示しているが、実際には左半部2Aについても同様に測定点を設定している)、凹面側の内径エッジから直径方向及び内径内部方向(図中縦方向)に各0.2mmの位置を測定点の基準点として、この基準点を基に図中縦横に各0.2mm間隔で測定点を設定し、さらに基準点から内径エッジ側に縦横各0.1mmの位置にも測定点を設定し、各測定点における断面硬さをマイクロビッカース硬度計(荷重2.9N、5秒)により測定した結果を図18に断面硬さ分布図として示す。同図では、各測定点における測定結果の数値(ビッカース硬度)と共に、硬度450Hvの境界を実線、500Hvの境界を一点鎖線、硬度550Hvの境界を破線で示している。この結果から、450Hvの境界は内径エッジ部から0.4〜0.7mmの範囲に、500Hvの境界は内径エッジ部から0.9〜1.0mmの範囲(0.9mmは図示を省略した左半部2Aにおける測定結果に基づく)に、550Hvの境界は内径エッジ部から1.3〜1.4mmの範囲にあることが認められた。この実験と同様に、円形コイル20による加熱時間を変化させて断面硬さ分布を測定したところ、加熱時間を延ばせば焼き戻し範囲が広がり、加熱時間を縮めると焼き戻し範囲が狭まることが分かった。
さらに、マクロ観察として、皿ばね2の左半部2A及び右半部2Bにおける内径周辺部をナイタルエッチングした。この状態の組織は、図20に写真で示すように、内径エッジ部2aが強く焼き戻されている様子がわかる。同図中に、図19に示したものと同様の硬度450Hv、500Hv、550Hvの境界を示しているが、色が濃い部分(内径エッジ部2aに近い部分)ほど強く焼き戻されて軟化している状態が把握できる。この他、ミクロ観察においても、円形コイル20の近傍で加熱された内径エッジ部2aが強く焼き戻され、加熱による影響が円形コイル20から離れるほど小さくなっている状態が確認された。
以上に説明した本実施例における各種の実験結果から、サンプル鋼片とした皿ばね2を本発明の歯車に置き換えると、歯先エッジ部軟化工程によって歯車の歯先エッジ部を適度に軟化させるためには、対象物の大きさ、コイルまでの距離、電源周波数、通電時間、歯車の鋼材種によって微妙な条件設定が必要であるが、歯先エッジ部のみが焼き戻されて軟化する条件が確実に存在することが分かった。また、皿ばね2を対象とした実験と同様の高周波焼き戻しを歯車の歯先エッジ部に対して行えば、コイルから遠い歯元歯面に対して歯先エッジ部の硬さを60%程度まで軟化させることができ、処理条件を詳細に選定すれば、さらなるエッジ部の焼き戻しが可能であると想定される。問題は、加熱後、エッジ部の温度低下速度が急激になりすぎると、焼き入れの状態になりエッジ部の硬度は低下しないので、これを生じないような条件を対象物の材質、形状、大きさ、コイルの設計、エッジ部とコイルの間隔、通電周波数、電圧、対象物の回転速度等の調整により設定することが必要である。相手歯車とのかみ合い時に、相手歯車の歯元歯面と接触した歯先エッジ部が塑性変形して丸められるためには、歯元歯面との硬さに少なくとも有意差が認められる必要があることから、歯先エッジ部軟化工程による歯先エッジ部の軟化の程度は90%以下とすることが望ましいといえる。また、歯先エッジ部の60%までの軟化までは求められず、70%程度の軟化で十分な塑性変形が得られると考えられる場合には、歯面方向への歯先エッジ部の範囲は、歯先エッジから0.7〜1.0mm程度までと設定すれば十分である。なお、歯車の歯の大きさ、したがってモジュールによって、上記の寸法は0.7〜1.0mmより若干変化させてもよい。例えばモジュールの大きい歯の場合には、この寸法を若干大きくしてもよい。また、軟化の程度を50%未満にまで低下させることは製造工程上、困難であるため、50%を下限値とすることが妥当である。
焼入歯車の歯の硬度は一般に歯先が最も硬く、歯元にゆくほど漸次、硬度が低下するものであることが知られている。歯先エッジ近くの歯形形状を極めて特殊な修整加工した歯車以外では、この硬い歯先エッジが相手歯元歯面をトロコイド干渉により攻撃し、歯車損傷を誘発している。本発明を実施し、歯先エッジ部を相手歯車の歯面かみ合い限界点付近より軟化させた歯車では、極めて高価な加工となる上記の歯先エッジ近くの歯面形状に特殊な修整加工を施すことなく、工場雰囲気中で極めて短時間当該歯車を高周波加熱処理を施すだけで、歯先エッジ部を軟化させ強度的信頼性の高い歯車を製造することができるので、その産業的意味は大きい。
このように、歯先エッジ部の硬度を焼き戻しによる歯先エッジ部軟化工程を経て軟化させることで歯車を製造した場合、歯先エッジ部の硬度はかみ合う相手歯車の歯元歯面の硬度よりも十分に低く(柔らかく)することができ、歯車のかみ合い時にトロコイド干渉が生じて歯先エッジ部が相手歯車の歯元歯面に強く接触すれば、軟化している歯先エッジ部は強い接触応力により塑性変形し、歯車装置の稼働初期から自然に丸められる結果、歯元歯面が損傷を受ける程度を極めて小さくすることができ、歯先エッジ部の破損の程度も低減させることができることとなる。