この発明の一実施形態について、図1〜図14を参照して説明する。
この実施形態に係る成膜装置10は、イオンプレーティング法を採用するものであり、図1〜図3に示すように、概略円筒形の真空槽12を有している。なお、図1は、成膜装置10の内部を正面から見た図であり、図2は、図1のA−A矢視断面図、図3は、図1のB−B矢視断面図である。
真空槽12は、円筒形の両端に対応する部分を水平方向に向けた状態で配置されており、当該両端に対応する部分は、概略円盤状の前方壁板14およびこれと略同形状の後方壁板16によって閉鎖されている。そして、これらの前方壁板14および後方壁板16を含む真空槽12は、例えばステンレス鋼(SUS304)によって形成されており、それ自体は、共通電位としての接地電位(GND)に接続されている。また、真空槽12の内部は、排気手段としての図示しない真空ポンプによって排気される。なお、真空槽12の直径Cは、例えば1140[mm]であり、奥行寸法Dは、例えば885[mm]である。
そして、真空槽12内の略中央には、蒸発源18が配置されている。この蒸発源18は、蒸発材料20が収容される坩堝22と、当該蒸発材料20を加熱するための材料加熱手段、例えば電子銃24とを、備えている。さらに、蒸発源18の下方近傍には、槽内加熱手段としてのヒータ26が配置されている。なお、電子銃24は、真空槽12の外部に設けられた図示しない電子銃用電源装置から所定の直流電力(電子銃パワー)が供給されることによって、電子ビームを発射し、蒸発材料20を加熱する。そして、ヒータ26は、真空槽12の外部に設けられた図示しないヒータ用電源装置から所定の交流電力が供給されることによって、発熱する。
また、真空槽12内には、自公転機構28が設けられている。具体的には、自公転機構28は、真空槽12の直径C(厳密には内径)よりも少し、例えば100[mm]ほど径の小さい円盤状の筐体を有しており、この筐体の中央を真空槽12(円筒形)の中心軸に一致させた状態で、後方壁板16の内側面に近接して設けられている。そして、この自公転機構28の中央には、回転軸30が設けられており、この回転軸30は、後方壁板16を貫通して、真空槽12の外部に設けられたモータ32の図示しないシャフトに結合されている。さらに、自公転機構28の前方側周縁近傍には、当該周縁に沿って等間隔(5度間隔)に複数個、例えば72個の支持手段としてのホルダ34,34,…が設けられている。そして、これらのホルダ34,34,…のそれぞれに、被処理物36が取り付けられる。なお、図1〜図3は、当該被処理物36として、例えばマシニングセンタ用のエンドミルが取り付けられている状態を示す。かかるエンドミルのような細長い被処理物36は、真空槽12の中心軸に沿う方向に延伸するようにそれぞれのホルダ34に取り付けられる。そして、各ホルダ34,34,…の並びによって描かれる円の直径(真空槽12の中心軸を間に挟んで互いに対向する2つのホルダ34および34間の距離)Fは、例えば920[mm]とされている。
かかる自公転機構28によれば、モータ32が駆動されて、回転軸30が回転すると、各ホルダ34,34,…に取り付けられた被処理物36,36,…が、真空槽12の中心軸を中心として例えば図1に矢印38で示す方向(時計方向)に回転する。言い換えれば、各被処理物36,36,…は、蒸発源14の周りを言わば公転する。これと同時に、それぞれの被処理物36は、自身を中心として例えば時計方向に回転し、言わば自転する。なお、自転速度は、公転速度よりも速く、例えば公転速度の10倍である。
さらに、真空槽12内には、互いに距離を置いて対向するように、カソード40およびアノード42が設けられている。このうち、カソード40は、例えば直径が1[mm]、長さ寸法が200[mm]〜400[mm]ほどの概略直線状のタングステン製フィラメント(厳密には長さ寸法が数十[mm]ほどの直線状のフィラメントが複数本(例えば3本)直列に接続されたもの)を備えている。そして、このカソード40は、蒸発源18とその真上にある被処理物32との略中間で、かつ真空槽12を正面から見て(図1において)当該真空槽12の中央よりも少し右寄りの位置に、当該真空槽12の中心軸に沿う方向に延伸するように、配置されている。
一方、アノード42は、例えばモリブデン製またはタングステン製であり、長さ寸法が200[mm]〜400[mm]程度の四角柱状に形成されたものである。そして、このアノード42は、真空槽12の中心軸を通る垂直面を挟んで、カソード40と略正反対側の位置に、当該真空槽12の中心軸に沿う方向に延伸するように、配置されている。なお、これらカソード40とアノード42との間の距離は、例えば200[mm]〜300[mm]程度とされている。
そして、カソード40には、真空槽12の外部に設けられたカソード電力供給手段としてのカソード加熱用電源装置44から、交流のカソード電力Ecが供給される。また、このカソード加熱用電源装置44の接地用端子には、カソードバイアス供給手段としてのカソードバイアス用電源装置46から、直流のカソードバイアス電圧Vcbが印加される。つまり、交流のカソード電力Ecに対して、直流のカソードバイアス電圧Vcbが重畳される。なお、カソードバイアス電圧Vcbは、接地電位を基準とする負電圧である。
一方、アノード42には、真空槽12の外部に設けられたアノード電力供給手段としてのアノード用電源装置48から、直流のアノード電圧Vaが印加される。なお、このアノード電圧Vaは、接地電位を基準とする正電圧である。
さらに、真空槽12内には、カソード40およびアノード42を間に挟んで、磁界発生手段としての1対の磁界発生器50および52が設けられている。具体的には、各磁界発生器50および52のそれぞれは、細長い直方体状の筐体を有している。そして、これらの磁界発生器50よび52は、カソード40およびアノード42を間に挟んだ状態でそれぞれの一側面を互いに対向させ、厳密には当該一側面を斜め上方に向け、かつカソード40およびアノード42と平行を成して延伸するように(つまり真空槽12の中心軸に沿う方向に延伸するように)、配置されている。なお、各磁界発生器50および52の長さ寸法は、例えば200[mm]〜400[mm]程度とされている。また、各磁界発生器50および52間の距離は、例えば250[mm]〜350[mm]程度とされている。
そして、各磁界発生器50および52には、それぞれ図示しない永久磁石が内蔵されている。詳しくは、各磁界発生器50および52の互いに対向する一側面(言わば内側面)が、互いに異なる磁極となるように、当該永久磁石が内蔵されている。なお、ここでは、カソード40側に配置された磁界発生器50の内側面がS極とされ、アノード42側に配置された磁界発生器52の内側面がN極とされている。これによって、これらの磁界発生器50および52で挟まれた空間に磁界が発生する。
さらにまた、当該磁界の発生領域を拡張するために、各磁界発生器50および52にはヨーク54および56が取り付けられている。これらのヨーク54および56は、平板状のものであり、その幅寸法は、各磁界発生器50および52(筐体)の幅寸法よりも大きく、例えば当該各磁界発生器50および52(筐体)の幅寸法の1.5倍〜2倍程度とされている。そして、各ヨーク54および56の長さ寸法は、各磁界発生器50および52の長さ寸法と略同等とされている。これらのヨーク54および56は、各磁界発生器50および52の内側面とは反対側の面(言わば外側面)を覆うように、かつ当該外側面の上方縁から上方に突出する(はみ出す)ように、取り付けられている。かかるヨーク54および56が取り付けられることで、各磁界発生器50および52による磁界の発生領域がより拡張される。
なお、上述したように各磁界発生器50および52は互いに対向する一側面を斜め上方に向けた状態で配置されているが、これもまた、磁界の発生領域を拡張させるためであり、詳しくは一定の磁束密度を維持しつつ被処理物36,36,…の近傍において広い磁界を形成するためである。これらの磁界発生器50および52の傾斜角度は、両者間の距離に応じて変わり、例えば5度〜45度とされ、ここでは約30度とされている。そして、言うまでもなく、当該各磁界発生器50および52の傾斜に応じて、各ヨーク54および56も傾けられている。また、アノード42についても同様に、当該アノード42側に配置された磁界発生器52と同じ方向に傾けられている。かかる構成により、この実施形態においては、各磁界発生器50および52間の略中央において、例えば6[mT]〜10[mT]という比較的に大きい磁束密度が得られる。また、各磁界発生器50および52の上縁から最上位にある被処理物36(公転軌道の最上位)までの高さ寸法Hは、例えば105[mm]±60[mm]とされている。
そして、真空槽12内には、ガス導入手段としてのガス管58を介して、後述するプラズマを発生させるための放電ガス、および被膜の材料となる材料ガスのそれぞれが、適宜導入される。なお、ガス管58は、これらのガスを効率よく放電(電離)させるべく、上述の磁界の近辺、例えばアノード42の少し下方に、当該各ガスを噴出させるように配置されている。また、真空槽12の外部には、当該ガス管58内を流れるガスの流量を個別に制御するための流量制御手段としてのマスフローコントローラ60が設けられている。
さらに、各被処理物36,36,…には、真空槽12の外部に設けられたバイアス供給手段としてのパルス電源装置62から、自公転機構28およびホルダ34,34,…を介して、バイアス電力Ebとしてのパルス電力が供給される。具体的には、当該パルス電力Ebは、図4に示すような矩形波電力であり、その周波数fは、10[kHz]〜300[kHz]の範囲内で任意に設定可能とされている。そして、デューティ比(T’/T)は、20[%]一定とされており、ハイレベル時の電圧値Vaは、+37[V]一定とされている。そして、ローレベル時の電圧値Vbによって、平均電圧値Vmが、例えば0[V]〜−110[V]の範囲内で任意に設定される。
このように構成された成膜装置10によれば、上述したcBN膜を形成することができる。具体的には、まず、当該cBN膜の形成に先立って、放電洗浄処理が行われる。そして、この放電洗浄処理の後に、中間層としてのTiN膜が形成され、続いてcBN膜が形成される。なお、これらTiN膜およびcBN膜の形成に際しては、上述した蒸発材料20として、固形のチタン材およびホウ素材が、個別に坩堝22内に収容される。そして、上述した放電ガスとして例えばアルゴンガスが用いられ、材料ガスとして窒素ガスが用いられる。
より具体的に説明すると、まず、放電洗浄処理を行うべく、真空ポンプによって真空槽12内が排気され、例えば1×10−4[Pa]ほどの高真空状態とされる。そして、ヒータ26によって被処理物36,36,…が例えば300[℃]〜600[℃]に加熱された後、ガス管58を介して真空槽12内にアルゴンガスが導入される。このアルゴンガスが導入された状態での真空槽12内の圧力は、例えば4×10−2[Pa]〜1×10−1[Pa]程度とされる。
この状態で、カソード40に対しカソード加熱用電源装置44からカソード電力Ecが供給される。すると、カソード40は加熱されて、熱電子を放出する。そして、アノード42に対しアノード用電源装置48からアノード電圧Vaが印加されると、当該熱電子は、アノード42に向かって加速される。この加速過程において、熱電子は、アルゴンガスの粒子に衝突し、これによって、アルゴンガス粒子が放電し、プラズマが発生する。ここで、上述したように、カソード40に供給される交流のカソード電力Ecには、直流のカソードバイアス電圧Vcbが重畳されている。従って、熱電子は、このカソードバイアス電圧Vcbとアノード電圧Vaとの総和に応じて加速される。このように熱電子を加速させるためのエネルギ源として、アノード電圧Vaの他に、カソードバイアス電圧Vcbが与えられることで、プラズマが安定する。
さらに、上述したように、カソード40およびアノード42が配置されている空間には、磁界が発生している、従って、これらカソード40およびアノード42間に発生したプラズマは、当該磁界内に閉じ込められ、これによって図1〜図3のそれぞれに破線模様64で示すように断面が概略扇状のプラズマ領域が形成される。そして、モータ32が駆動されると、各被処理物36,36,…は、自公転機構28による公転作用によって、当該プラズマ領域68に順次搬送される。そして、自公転機構28による自転作用によって、プラズマ領域68内にある被処理物36,36,…の表面に対し均等にプラズマが作用する。
ここで、パルス電源装置62から各被処理物36,36,…に対し上述したバイアス電力としてのパルス電力が供給されると、プラズマ領域68内のアルゴンイオンが、当該プラズマ領域68内にある被処理物36,36,…の表面に照射される。そして、このイオン照射による衝撃によって、プラズマ領域68内にある被処理物36,36,…の表面が洗浄され、つまり放電洗浄処理が行われる。
なお、各被処理物36,36,…の公転速度は、例えば1[rpm]とされる。また、プラズマ領域68の広がり角度(磁界発生器50および52の開き角)は、真空槽12の中心軸を中心として例えば60度とされている。従って、各被処理物36,36,…は、それぞれ1分間につき10秒間だけ、いわゆる間欠的に放電洗浄処理を施される。また、各被処理物36,36,…は、公転速度の10倍の速度、つまり10[rpm]で自転しているので、それぞれの表面全体に対して一様に放電洗浄処理が施される。このことは、これから説明するTiN膜の成膜処理およびcBN膜の成膜処理においても、同様である。
かかる放電洗浄処理に続いて、TiN膜を形成するための成膜処理が行われる。具体的には、次の手順に従って、Ti膜,TiN膜およびTi膜が、順次形成される。
即ち、上述の如く真空槽12内がアルゴンガス雰囲気で4×10−2[Pa]〜1×10−1[Pa]程度に保たれている状態において、蒸発材料20のうちのチタン材のみが、電子銃24によって加熱される。これによって、チタン材は、蒸発し、プラズマ領域64においてイオン化される。そして、イオン化されたチタン、つまりチタンイオンは、プラズマ領域64内にある被処理物36,36,…の表面に照射され、これによって、当該被処理物36,36,…の表面に、チタンが堆積し、Ti膜が形成される。このTi膜の成膜処理は、約2分間にわたって行われる。換言すれば、個々の被処理物36について、1分間につき10秒間の当該成膜処理が2回ずつ行われる。
そして、次に、アルゴンガスに加えて、窒素ガスが、当該アルゴンガスと混合された状態で真空槽12内に導入される。このときも、真空槽12内の圧力は、4×10−2[Pa]〜1×10−1[Pa]程度に保たれる。真空槽12内に導入された窒素ガスは、プラズマ領域64においてイオン化される。そして、イオン化された窒素、つまり窒素イオンは、上述のチタンイオンと共に、プラズマ領域64にある被処理物36,36,…の表面(Ti膜の上)に照射される。これによって、被処理物36,36,…の表面に、窒素およびチタンの化合物である窒化チタンが堆積し、TiN膜が形成される。このTiN膜の成膜処理は、20分〜80分にわたって行われる。
続いて、窒素ガスの導入が停止される。これによって、上述と同じ要領で、再度、Ti膜の成膜処理が行われる。この再度のTi膜の成膜処理もまた、約2分間にわたって行われる。この結果、Ti/TiN/Tiという3層構造のTiN膜の成膜処理が完了する。
このTiN膜の成膜処理の次に、cBN膜の成膜処理が行われる。具体的には、まず、TiN膜との密着性を向上させるべくB膜が形成される。そして、このB膜の上に、cBN膜が形成される。
即ち、坩堝22内のチタン材に代えてホウ素材が、電子銃24によって加熱される。加熱されたホウ素材は、蒸発し、プラズマ領域64においてイオン化される。そして、イオン化されたホウ素、つまりホウ素イオンは、プラズマ領域64内にある被処理物36,36,…の表面(TiN膜の上)に照射される。これによって、当該被処理物36,36,…の表面に、ホウ素が堆積し、B膜が形成される。このB膜の成膜処理は、約1分間にわたって行われる。
そして、この約1分間の経過後、真空槽12内に窒素ガスが導入される。このときも、真空槽12内の圧力は、4×10−2[Pa]〜1×10−1[Pa]程度に保たれる。真空槽12内に導入された窒素ガスは、プラズマ領域68においてイオン化される。そして、このイオン化による窒素イオンは、ホウ素イオンと共に、プラズマ領域64内にある被処理物36,36,…の表面(B膜の上)に照射される。これによって、被処理物36,36,…の表面に、窒素およびホウ素の化合物である窒化ホウ素が堆積し、cBN膜が形成される。
なお、このcBN膜の形成過程においては、時間の経過と共に、窒素ガスの流量が段階的に増大される。これによって、当該cBN膜を構成するホウ素に対する窒素の組成比率が段階的に増大する。また、この窒素ガスの流量に応じて、被処理物36,36,…に供給されるバイアス電力Ebの平均電圧値(絶対値)|Vm|も段階的に増大される。このように窒素ガスの流量およびバイアス電力Ebの平均電圧値|Vm|が段階的に増大されることで、密着性の高いかつ高硬度なcBN膜が形成される。
このcBN膜の成膜処理は、約69分間にわたって行われる。そして、この約69分間にわたるcBN膜の成膜処理をもって、一連の表面処理が完了し、図5に示すような被膜構造が完成する。
ところで、この実施形態では、上述したように、各被処理物36,36,…に供給されるバイアス電力Ebとして、周波数fが10[kHz]〜300[kHz]のパルス電力が採用される。そして、このようにバイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されることで、次のようなメリットがある。
即ち、これまでの成膜装置においては、当該バイアス電力Ebとして、図6に示すような周波数fが13.56[MHz]の高周波電力(正弦波電力)が、常套的に採用されていた。これは、被処理物の表面におけるチャージアップの発生を防止するためであり、換言すれば、当該バイアス電力Ebの周波数fが高いほどチャージアップが発生し難いとされているからである。
ところが、かかる高周波電力が被処理物に供給されると、表皮効果によって主に当該被処理物の表面にのみ電流が流れる。そして、当該被処理物の表面温度が上昇し、この温度上昇によって被処理物が変質し、ひいては脆弱化することがある。これを証明する一例を、図7に示す。
図7において、(a)は、TiAlN(窒化チタンアルミニウム)膜が形成された超硬合金製のエンドミルの刃先であって、被切削物としての合金工具鋼(SKD61_HRC53)を0.6[m]にわたって切削した後の当該刃先を拡大して撮影した画像である。この図7(a)によれば、刃先の鋭さは保たれており、特段な磨耗は見受けられない。これに対して、図7(b)は、図7(a)と同じエンドミルに、バイアス電力Ebとして300[W]の高周波電力を供給して放電洗浄処理のみを施し、この放電洗浄処理を施されたエンドミルによって図7(a)と同じ条件で切削した後の当該エンドミルの刃先を拡大して撮影した画像である。この図7(b)によれば、刃先部分が約30[μm]の幅で白っぽくなっていることが、分かる。これは、TiAlN膜が剥離したからであり、かかる膜剥離は、当該刃先部分(母材表面)が脆弱化したために生じたものと、考えられる。よって、この場合、母材自体で切削しているのと同じことになり、切削寿命が短くなる。つまり、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されることで、被処理物(エンドミル)自体が脆弱化し、特にエンドミルという切削工具についてはその寿命が短くなることが、分かる。
ここで、図8に、表皮効果を説明するための図解図として一般に知られている、導線内部の電流分布図を示す。この図8において、横軸(X軸)は、直径が1[mm]の導線の中心からの距離rを示し、縦軸(Y軸)は、当該導線の表面に流れる電流の密度J(a)に対する任意の距離rにおける電流密度J(r)の比Rj(=J(r)/J(a))を示す。この図8から分かるように、導線を流れる電流の周波数fが低いほど、当該電流は導線の断面を略一様(均一)に流れる。一方、周波数fが高いほど、電流は導線の表面(|r|=0.5[mm])付近に集中して流れる。特に、上述の高周波電力の周波数fに近い10[MHz](二点鎖線の曲線)の場合には、電流は導線の中心(r=0[mm])付近を殆ど流れず、表面から数十[μm]ほど離れると、当該電流は表面に流れる電流の36.8[%]以下となる。この表面に流れる電流の36.8[%]に対応する当該表面からの深さ寸法は、表皮深さδと呼ばれており、この表皮深さδは、次の式1で表される。
《式1》
δ={2/(ωμσ)}1/2
なお、この式1において、ωは電流の角周波数であり、ω=2πfである。そして、μは、電流が流れる物体の透磁率、σは、当該物体の電気伝導率であり、これら透磁率μおよび電気伝導率σは、物体によって異なる。
この式1からも分かるように、電流の周波数f(角周波数ω)が高いほど、表皮深さδは小さくなり、言わば表皮効果による影響が大きくなる。一方、電流の周波数fが低いほど、表皮深さδは大きくなり、言わば表皮効果による影響は小さくなる。そして、この表皮深さδは、物体の透磁率μおよび電気伝導率σによって、変わる。
図9に、例えば代表的な金属である銅(Cu)および鉄(Fe)についての周波数fに対する表皮深さδの関係を示す。この図9によれば、銅については、周波数fが13.56[MHz]であるときに、表皮深さδが約15[μm]であるのに対して、周波数fが例えば100[kHz]であるときは、表皮深さδは約200[μm]になる。そして、鉄については、周波数fが13.56[MHz]であるときに、表皮深さδが約40[μm]であるのに対して、周波数fが100[kHz]であるときは、表皮深さδは約500[μm]になる。これらを総合すると、周波数fが13.56[MHz]の場合に比べて、その約1/100である100[kHz]の場合は、表皮深さδが約10倍となり、言わば表皮効果による影響が小さくなる、と推察される。このことは、上述の式1からも、明らかである。
つまり、例えば、上述したバイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力が採用されることで、当該バイアス電力Ecとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力が採用される場合に比べて、表皮効果による影響が小さくなり、その分、被処理物36,36,…の温度上昇が抑制され、ひいては当該被処理物36,36,…の脆弱化が防止されることが、期待される。これを裏付けるために、次の3つの実験を行った。
まず、第1の実験として、被処理物36の温度上昇がどれくらい抑制されるのかを検証するための実験を行った。具体的には、被処理物36として、シリコン(Si)ウェハを用いる。そして、当該被処理物36にバイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力を供給し、図10に示す条件で、上述した要領に従って、放電洗浄処理、TiN膜の成膜処理およびcBN膜の成膜処理を、行う。なお、cBN膜の成膜処理においては、上述したように窒素ガスの流量を段階的に増大させ、具体的には25[mL/min]〜50[mL/min]の範囲で段階的に増大させる。そして、バイアス電力Ebの平均電圧値Vmについても、−10[V]〜−70[V]の範囲で段階的に変化させる。なお、バイアス電力Ebの電力値は、20[W]〜400[W]に設定される。この電力値の設定は、ローレベル時の電圧値Vbによって行われる。
これと併せて、対照用に、バイアス電力Ebとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力を被処理物36に供給し、詳しくはパルス電源装置48に代えて当該高周波電力を生成可能な高周波電源装置を用いる。そして、上述(図10)と同じ条件で、放電洗浄処理、TiN膜の成膜処理およびcBN膜の成膜処理を、行う。なお、この高周波電力については、上述の平均電圧値Vmではなく、図6に示すように当該高周波電力に重畳される直流成分(自己バイアス電圧)Vdcを図10の条件に合わせる。そして、この高周波電力もまた、上述の平均電圧値Vmと同様に、cBN膜の成膜処理において段階的に増大させる。勿論、窒素ガスの流量も、段階的に増大させる。そして、高周波電力の電力値は、300[W]〜1600[W]に設定され、この電力値の設定は、ピーク・トゥー・ピーク電圧値Vppによって行われる。
このようにバイアス電力Ebが互いに異なる条件下で形成された被膜の成分を、X線回折装置(XRD)によって解析した。その結果を、図11に示す。この図11において、(a)が、バイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力が採用された場合の解析結果であり、(b)が、周当該バイアス電力Ebとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力が採用された場合の解析結果である。いずれの場合も、被膜を構成するTiNおよびTiのピークが認められる。ところが、図11(b)においては、被処理物36そのもの(母材)であるシリコンを含むTiSixというシリコン化合物のピークが認められる。このシリコン化合物の反応温度は、熱平衡状態で1330[℃]であることが知られている。従って、かかるシリコン化合物が検出されると言うことは、たとえ真空槽12内の(真空中という)環境を考慮しても、被処理物36の温度が相当の(例えば1330[℃]に近い)温度にまで上昇したものと、推察される。なお、図11(b)においては、当該シリコン化合物のピークは認められない。つまり、この第1の実験によれば、バイアス電力Ebとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力が採用された場合には、被処理物36の温度が変質を招く程度の温度にまで上昇するが、バイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力が採用されることによって、当該被処理物36の温度上昇が抑制されることが、確認された。
次に、第2の実験として、第1の実験と同じ条件で、被処理物36としてのエンドミルにcBN膜を形成することによって、当該エンドミルの寿命がどれくらいになるのかを検証するための実験を行った。具体的には、被処理物36として、上述したTiAlN膜が形成された超硬合金製エンドミルを用いる。そして、このエンドミルに、第1の実験と同じ条件、つまりバイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力を供給する場合と、周波数fが13.56[MHz]の高周波電力を供給する場合とで、放電洗浄処理、TiN膜の成膜処理およびcBN膜の成膜処理を、施す。そして、これら一連の処理が施されたエンドミルをマシニングセンタに取り付け、被切削材としての合金工具鋼(SKD61_HRC53)を切削し、切削距離に対する切削抵抗を測定した。その結果を、図12に示す。
なお、マシニングセンタによる切削時の切削速度は302[m/min]、送りピッチは0.1[mm/tooth]、切り込み寸法は半径方向で0.25[mm]、軸方向で7.8[mm]である。また、図12において、実線の曲線が、バイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されたエンドミルの測定結果を示し、破線の曲線が、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたエンドミルの測定結果を示す。そして、一点鎖線の曲線は、未処理のもの、つまりTiAlN膜のみが形成されたエンドミルの測定結果を示す。
この図12から分かるように、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたエンドミルについては、切削開始直後(切削距離が10[m]に達するまで)に、切削抵抗が急増する。これは、初期チッピングが生じたためであると、考えられる。そして、この図12において、切削抵抗が550[N]に達した時点を寿命と見なすと、当該バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたエンドミルの寿命は、概ね60[m]である。これに対して、未処理のエンドミルについては、初期チッピングが認められず、その寿命は、概ね120[m]である。つまり、cBN膜という高硬度被膜が形成されているにも拘らず、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたエンドミルの寿命は、未処理のものの略半分である。これでは、cBN膜を形成すること自体が無意味になる。一方、バイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されたエンドミルについても、未処理のものと同様、所期チッピングは認められない。ただし、寿命は、概ね330[m]であり、当該未処理のものの2倍以上である。つまり、この第2の実験によれば、バイアス電力Ebとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力が採用された場合には、被処理物36としてのエンドミルの寿命が、未処理のものに比べて短くなる。そして、当該バイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力が採用された場合には、未処理のものに比べて、2倍以上も寿命を延ばすことができる、という結果が得られた。
そして、第3の実験として、第1および第2の実験と同じ条件で、被処理物36としての超硬合金製のスローアウェイチップにcBN膜を形成することによって、当該スローアウェイチップの寿命がどれくらいになるのかを検証するための実験を行った。即ち、第1および第2の実験と同じ条件で、当該スローアウェイチップに放電洗浄処理、TiN膜の成膜処理およびcBN膜の成膜処理を、施す。そして、これら一連の処理が施されたスローアウェイチップを旋盤に取り付け、被旋削材としてのネズミ鋳鉄鋼(FC250)を旋削し、旋削距離に対する当該スローアウェイチップの逃げ面の磨耗幅を測定した。その結果を、図13に示す。
なお、旋盤による旋削時の旋削速度は150[m/min]、送りピッチは0.278[mm/rev]、切り込み寸法は1.5[mm]である。また、図13において、実線の曲線が、バイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されたスローアウェイチップの測定結果を示し、破線の曲線が、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたスローアウェイチップの測定結果を示す。そして、一点鎖線の曲線は、参考用としてTiAlN膜のみが形成されたスローアウェイチップの測定結果を示し、短い破線の曲線は、未処理のもの、つまり何らの被膜も形成されていないスローアウェイチップの測定結果を示す。
この図13において、未処理のスローアウェイチップについては、逃げ面の磨耗よりもいわゆるクレータ磨耗が激しく、旋削距離が約600[m]の時点で、使用不可となった。そして、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたスローアウェイチップについては、やはり初期チッピングによって、旋削開始直後から逃げ面磨耗幅が急増する。ここで、逃げ面磨耗幅が0.6[mm]に達した時点を寿命と見なすと、当該バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたスローアウェイチップの寿命は、概ね1000[m]である。これに対して、TiAlN膜のみが形成されたスローアウェイチップについては、初期チッピングは認められず、その寿命は、概ね2200[m]である。つまり、第2の実験の場合と同様、cBN膜という高硬度被膜が形成されているにも拘らず、バイアス電力Ebとして高周波電力が採用されたスローアウェイチップの寿命は、当該cBN膜が形成されていないものの略半分である。一方、バイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されたスローアウェイチップについても、所期チッピングは認められず、その寿命は、概ね5300[m]である。しかも、他のスローアウェイチップについては、クレータ磨耗によって寿命が尽きるが、当該バイアス電力Ebとしてパルス電力が採用されたスローアウェイチップについては、クレータ磨耗は認められず、刃先が均一して磨耗していること、つまり場合によっては未だ旋削可能であることが、確認された。即ち、この第3の実験によれば、バイアス電力Ebとして周波数fが13.56[MHz]の高周波電力が採用された場合には、被処理物36としてのスローアウェイチップの寿命が、却って短くなる。そして、当該バイアス電力Ebとして周波数fが100[kHz]のパルス電力が採用された場合には、スローアウェイチップの寿命を大幅に延ばすことができる、という結果が得られた。
なお、これら第1〜第3の実験においては、いずれも上述したチャージアップは認められなかった。また、当該第1〜第3の実験においては、TiN膜を中間層とするcBN膜を形成する場合について説明したが、これ以外の被膜を形成する場合には、当該被膜の電気抵抗率に応じてバイアス電力Ebとしてのパルス電力の周波数fを例えば10[kHz]〜300[kHz]の範囲内で定めるのが望ましい。具体的には、被膜の電気抵抗率が高いほどバイアス電力Ebの周波数fを高めに設定し、被膜の電気抵抗率が低いほどバイアス電力Ebの周波数を低めに設定する。このようにすれば、電気抵抗率が異なる様々な被膜を、チャージアップを誘発させることなく、適切に形成することができる。
以上のように、この実施形態によれば、バイアス電力Ebとして、上述した高周波電力よりも遥かに周波数fの低い10[kHz]〜300[kHz]のパルス電力が採用されることで、表皮効果に起因する被処理物36の温度上昇が抑制され、ひいては変質が防止される。従って、被処理物36の変質を招くことなく、期待通りの被膜、例えば期待通りの高硬度なcBN膜を、形成することができる。
なお、この実施形態においては、バイアス電力Ebとして、図4に示したようないわゆる非対称パルス電力を採用したが、これに限らない。例えば、デューティ比が50[%]の対称パルス電力を採用してもよいし、方形波以外のパルス電力を採用してもよい。また、かかるパルス電力のような非正弦波電力ではなく、正弦波電力を採用してもよい。ただし、この場合、上述した直流成分Vdcを任意に調整可能とするのが、望ましい。勿論、図4におけるデューティ比および電圧値Vaを、任意に調整可能としてもよい。
そして、この実施形態では、イオンプレーティング法の成膜装置10にこの発明を適用する場合について説明したが、これに限らない。例えば、スパッタリング法等の他のPVD(Physical Vapor
Deposition)法の成膜装置や、CVD(Chemical Vapor Deposition)法の成膜装置のように、被処理物にバイアス電力が供給される構成の成膜装置であれば、この発明を適用することができる。
また、この実施形態では、TiN膜を中間層とするcBN膜を成膜する場合について説明したが、これ以外の被膜、例えばCrN(窒化クロム)膜やAlN(窒化アルミニウム)膜、SiN(窒化ケイ素)膜等の様々な被膜を、同様の手順で形成することもできる。この場合、上述したように、被膜の電気抵抗率に応じてバイアス電力Ebの周波数fを適宜設定するのが、望ましい。
そして、被処理物36については、上述したエンドミルやスローアウェイチップ等の切削工具、およびシリコンウェハに限らず、これ以外のものを、採用してもよい。尤も、切削工具を含む刃物等のように高硬度が要求される被処理物36において、かかる要求に対応するべくcBN膜等の高硬度被膜を形成するのに、この発明は極めて有効である。また、被処理物36の材質(電気抵抗率)をも加味して、バイアス電力Ebの周波数fを決定してもよい。
さらに、この発明は、放電洗浄処理のみを目的とする装置や、窒化処理等の成膜処理以外の表面処理を目的とする装置にも、適用することができる。
以上、ここで説明した内容は、飽くまでもこの発明を実施するための一例であり、この発明を限定するものではない。