一般に、飛行時間型質量分析装置(Time of Flight Mass Spectrometer、以下、TOFMSと称す)では、一定のエネルギーを与えることで加速したイオンはそれぞれ質量に応じた飛行速度を持つ、という原理に基づき、そうしたイオンが一定距離を飛行するのに要する飛行時間を計測し、その飛行時間を質量電荷比に換算することによりマススペクトルを作成する。したがって、質量分解能を向上させるためにはイオンの飛行距離を長くすればよいが、単に直線的な飛行距離を延ばそうとすると装置が大型化することが避けられない。そこで、長い飛行距離の確保と装置の小形化とを両立させるため、略円形状、略楕円形状、略8の字形状など様々な態様の閉軌道に沿ってイオンを繰り返し飛行させるようにした多重周回飛行時間型質量分析装置(Multi Turn - Time of Flight Mass Spectrometer、以下、MT−TOFMSと称す)が開発されている。
同様の目的で、上記のような周回軌道ではなく、反射電場によりイオンを複数回反射させる往復軌道とすることで飛行距離を延ばすようにした多重反射飛行時間型質量分析装置も提案されている。多重周回飛行時間型と多重反射飛行時間型とではイオン光学系は相違するものの、質量分解能を向上させるための基本的な原理は同じであるし、後述する課題も共通する。そこで、本明細書では、「多重周回飛行時間型」は「多重反射飛行時間型」を包含するものとする。
上述のようにMT−TOFMSは飛行距離を延ばして高い質量分解能を達成することができるものの、イオンの飛行経路が閉軌道であることを原因とする問題が存在する。それは、周回数が増加するに伴い、低質量電荷比であるために大きな飛行速度を持つイオンが高質量電荷比であるために小さな飛行速度しか持たないイオンを飛行途中で追い越してしまうという問題である。このように異なる質量電荷比のイオンの追越しが生じると、取得された飛行時間スペクトル上では異なる周回数飛行したイオン由来のピークが混在することになる。即ち、観測されるピーク毎に、対応するイオンの飛行距離が異なる、という状態が起こり得る。こうなると、イオンの質量電荷比と飛行距離とを一意に決定することができないため、飛行時間スペクトルを直接的にマススペクトルに換算することはできない。
上記問題のため、従来の多くのMT−TOFMSでは、イオン源で生成された試料由来のイオンの中で、上記のような追越しの起こらないことが保証された質量電荷比範囲に限定するように予め(周回軌道導入前に)イオンを選別し、選別されたイオンを周回軌道に導入して所定周回数だけ飛行させた後に検出する、という制御を行うのが一般的である。しかしながら、このような手法では、高質量分解能のマススペクトルを得ることはできるものの、そのマススペクトルの質量電荷比範囲はかなり限られたものとなる。これは、一回の測定で比較的広い質量電荷比範囲のマススペクトルを得られるというTOFMSの利点に反する。
これに対し、周回飛行中にイオンの追越しが起こった場合でも測定により得られた飛行時間スペクトルからマススペクトルを求める方法として、これまで以下のような幾つかの方法が提案されている。
例えば特許文献1には、目的試料に対し周回軌道からのイオンの排出時間(一般には、イオンがイオン源より出射された時点から該イオンが周回軌道に導入され該周回軌道から離脱される時点までの所要時間、以下、単に「イオンの排出時間」という)が相違する複数の飛行時間スペクトルを測定し、これら複数の異なる飛行時間スペクトルの多重相関関数を計算することによって単一周回数の飛行時間スペクトルを再構成する方法が開示されている。この方法では、多重相関関数の計算量が多くかなりの計算時間が掛かるため、測定を実行しながら略リアルタイムでマススペクトルを得ることは殆ど不可能である。また、飛行時間スペクトルに現れるピークの数が著しく多いと、計算量が非常に膨大となり、汎用のパーソナルコンピュータを用いた場合には、実用上許される時間で結果を得るのが難しくなる。
またマススペクトルを求める別の方法として、特許文献3、非特許文献1、2に記載の方法がある。この方法では、まず周回軌道を周回させない非追越しモードで目的試料に対する飛行時間スペクトル(0周回飛行時間スペクトル)を取得する。そして、この0周回飛行時間スペクトルに現れる複数のピークの飛行時間情報から、イオンの追越しが生じる可能性がある周回モードでの周回数と飛行時間とを予測し、その予測に基づいて、周回モードにおける飛行時間スペクトル上で上記ピークの時間幅の広がりを考慮した時間幅を持つセグメントを設定する。1個のセグメント内に含まれるピークは同一の周回数を持つものであるから、隣接するセグメント同士がオーバーラップしなければ、各ピークの周回数と質量電荷比とを一意に決めることが可能である。そこで、所定条件を仮定したときの周回モードの飛行時間スペクトル上に設定されるセグメントのオーバーラップの有無を判定し、オーバーラップが生じない条件を見つけてセグメントを確定する。これにより、周回軌道からイオンを排出する排出時間が決まるから、これに基づいてイオン排出用のゲート電極の電場の切替タイミングを制御することで周回モードの測定を実行し、この測定で取得された飛行時間スペクトルからマススペクトルを求める。
この方法におけるデータ処理は比較的簡単であるため、汎用のパーソナルコンピュータを用いても、ほぼリアルタイムでの処理が可能である。しかしながら、この方法では、観測するピークの数が多く、セグメントのオーバーラップが生じない条件が見つからない場合にマススペクトルを作成することができない。一般的に、タンパク質、糖鎖などの試料を測定する場合、セグメントのオーバーラップは頻発することが予測され、この方法を適用可能なケースはかなり限定されることになる。セグメントのオーバーラップを防ぐには、周回軌道に導入するイオンの質量電荷比範囲を或る程度制限することが考えられるが、これは測定のスループットを低下させてしまうことになる。
一方、特許文献2には、目的試料に対しイオンの排出時間が相違する複数の飛行時間スペクトルを測定し、それら複数の飛行時間スペクトルのそれぞれに現れる各ピークの飛行時間から考えられる質量電荷比の候補を挙げ、複数の飛行時間スペクトルにおいてそれぞれ挙げられた質量電荷比の候補の一致しているものを見つけることにより、目的とするイオンの質量電荷比を推定する方法が開示されている。
この方法でもデータ処理は比較的簡単であるため、汎用のパーソナルコンピュータを用いほぼリアルタイムでの処理が可能である。しかしながら、ピーク数が少ない場合には異なる飛行時間スペクトル上のピーク間の対応付けが簡単であるものの、試料に含まれる成分の数が多くなって飛行時間スペクトルに現れるピークの数が多くなると対応付けが難しくなる。また、ピーク数が多い場合には、実際には誤った質量電荷比であるのに偶然、整合性がとれてしまう、質量電荷比の誤推定を行うおそれも高くなる。さらに、異なる質量電荷比を有するイオン由来のピークが飛行時間スペクトル上で偶然重なってしまい、それによって質量電荷比を正確に推定できなくなることも多くなる。
前述のように、MT−TOFMSで得られる飛行時間スペクトルデータからマススペクトルを構成する従来の方法にはいずれも一長一短がある。特に、従来方法では、測定対象の試料に含まれる成分の数が多く飛行時間スペクトルに現れるピークの数が多い場合に、正確なマススペクトルを求めることが難しいか、或いは、1つの試料に対するマススペクトルを求めるために同一試料に対して分析条件の異なる多数の飛行時間スペクトルを必要とする。その場合、測定のスループットが低下するのみならず、試料の消費量が多くなるため試料が貴重である場合には採用が難しくなる。
本発明は上記課題に鑑みて成されたものであり、その主たる目的は、測定スループットの改善や試料消費量の削減を図るべく、1回又は少数回の測定で得られた結果を用いて広い質量電荷比範囲の精度の高いマススペクトルを得ることができる多重周回飛行時間型質量分析装置を提供することである。
上記課題を解決するために成された本発明は、イオン源からパルス的に出射させたイオンを周回軌道部に導入して略同一軌道に沿って複数回周回させ、その後に該周回軌道部を離れたイオンを検出してその飛行時間からイオンの質量電荷比を求める多重周回飛行時間型質量分析装置において、
a)前記周回軌道部を離れたイオンが後記イオン検出手段に到達するまでの軌道上に配設され、イオンの入射方向に対して直交するとともに、互いに直交する2方向にイオンを偏向可能である二組の偏向電極と、
b)前記二組の偏向電極に対しそれぞれ時間的に変動する電圧を印加する電圧発生手段と、
c)少なくとも前記二組の偏向電極による電場の作用によりイオンが変位する方向においてイオンが到達した2次元的な位置情報、及びイオンが到達した時間情報を提供するイオン検出手段と、
d)前記イオン検出手段に或るイオンが到達した時間情報と該イオンが到達した位置情報とに基づいて該イオンの周回軌道部上の周回数を推定し、その周回数の推定情報を用いて該イオンの質量電荷比を算出するデータ処理手段と、
を備え、前記データ処理手段は、算出された前記質量電荷比に基づいてマススペクトルを作成する機能を有し、一つの試料に対して、異なる時刻に前記周回軌道部をイオンが離れるという条件の下で実行された少なくとも二回の測定によりそれぞれ得られたマスペクトルを統合することで、前記試料に対するマススペクトルを作成することを特徴としている。
本発明に係る多重周回飛行時間型質量分析装置では、周回軌道部の略同一軌道上をイオンが周回する間に、質量電荷比が小さく飛行速度が速いイオンが質量電荷比が大きく飛行速度が遅いイオンを追い越す。そのため、周回軌道部から離れてイオン検出手段へ向かう軌道上では、イオンは質量電荷比の順に並ばず、各イオンが周回軌道部を周回した回数、つまり周回数も様々である。電圧発生手段から時間的に変動する電圧が偏向電極に印加されたとき、それにより生成される電場はイオンの進行方向の運動には影響しない。このため、例えば或るイオンがイオン源から出射された時点からイオン検出手段に到達する時点までの飛行時間は偏向電極による電場の影響を受けない。
他方、イオン検出手段の検出面上でイオンが到達する位置は、イオンが偏向電極を通過する際の電場の大きさや方向に応じて変化する。或る二種のイオンの質量電荷比が相違すれば飛行速度は相違し、そうであれば偏向電極を通過した時点からイオン検出手段の検出面に到達するまでの飛行時間も相違する。そこで、データ処理手段は、或るイオンがイオン検出手段の検出面に到達したとき、イオン検出手段が提供する位置情報と時間情報、つまりその変位量(偏向電場がない場合に到達する位置からのずれ量)、及び電圧発生手段による電圧の時間的変動のタイミングから、そのイオンが偏向電極を通過した時刻を推定する。また、そのイオンが偏向電極を通過した時刻とそのイオンがイオン検出手段に到達した時刻との差、及び、構造的に決まっている偏向電極からイオン検出手段までの距離から、そのイオンの飛行速度の概算値を求める。さらに、この飛行速度の概算値からそのイオンの周回数を推定し、周回数からそのイオンの実際の飛行距離を計算して飛行時間と飛行距離とから高精度の質量電荷比を計算する。
また、イオン検出手段に到達した全てのイオンについて同様に周回数を推定し、推定した周回数を利用して質量電荷比を計算することにより、イオン検出手段に到達したイオンの飛行時間スペクトルからマススペクトルを求めることができる。ただし、周回軌道部からイオンを離脱させるために用いるゲート電極の影響等により、一部のイオンが消失してしまってイオン検出手段にまで到達しない場合がある。その場合でも、本発明に係る多重周回飛行時間型質量分析装置では、分析条件を変えた2回の測定により得られた結果を合わせることにより、上記のようなイオンの消失を補って漏れのないマススペクトルを作成することができる。
上述したように飛行時間型質量分析装置では、同じ質量電荷比をもつイオンはもちろんのこと異なる質量電荷比をもつイオンも一定のエネルギーであるので、本発明に係る多重周回飛行時間型質量分析装置においても、偏向電極の電場が時間的に一定であれば、イオンは検出器面上の同じ位置に到達してしまう。しかしながら、偏向電極の電場が時間的に変化すれば、イオンの到達位置も時間的に変化して線状の軌跡をなす。そして、軌跡ができるだけ長くなるほうが、イオンが偏向電極を通過した時刻を位置情報から推定する際の推定精度が上がる。そこで、本発明では、前記偏向電極は、該電極へのイオンの入射方向に対して直交し、さらに互いに直交する2方向にイオンを偏向可能な二組の偏向電極を含み、前記電圧発生手段はその二組の偏向電極に対しそれぞれ時間的に変動する電圧を印加し、前記イオン検出手段は前記2方向に2次元的な位置情報を取得する。
ここで微小検出器とは、略同一の形状で、同一の検出原理・作用・機能を有するイオン・粒子等を検出する微小な検出器であって、個々の微小な検出器自体では検出時間や検出量の情報を提供できるが、微小な検出器内での検出位置を識別して提供できないものをいう。この微小検出器を1次元的又は2次元的に複数配列し、いずれの検出器が検出したのかという位置情報を提供する手段を備えれば、本発明におけるイオン検出手段としての作用・機能を有することとなる。例えばチャンネルトロンが微小検出器の一例であり、チャンネルトロンが複数配列されたマイクロチャンネルプレートにディレイラインアノードを備えれば、本発明におけるイオン検出手段としての作用・機能をもつ。
なお、上記構成において、前記電圧発生手段は、二組の偏向電極に対して時間的な変動波形の周期が互いに異なる電圧を印加する構成とするのが好ましい。
本発明によれば、イオンが到達する検出面上の位置情報が互いに直交する2方向(例えばX、Y方向)となって情報量が増えるため、イオンが偏向電極を通過した時刻をより正確に推定することができ、各イオンの飛行速度、ひいては周回数の推定精度も向上する。
なお、本発明に係る多重周回飛行時間型質量分析装置において、イオン源は必ずしもイオン発生源でなくてもよく、例えばイオントラップのように別の場所で生成されたイオンを一時的に保持し、該イオンに一斉にエネルギーを与えてパルス的に(パケット状にして)出射させるものであってもよい。また、周回軌道部における周回軌道の形状は特に問わず、周回軌道はイオンを往復運動させる反射軌道も含む。
本発明に係る多重周回飛行時間型質量分析装置によれば、この種の装置で問題となる異なる質量電荷比をもつイオン同士の追越しの問題を解消し、同一試料に対し1回又は少数回の測定で得られた結果を用いて広い質量電荷比範囲に亘る精度の高いマススペクトルを取得することができる。そのため、同一試料に対して多数回の測定を行う必要がなく、測定スループットを改善するのに有利である。また、試料の消費量が少なくて済むため、試料が高価である場合のコストアップを抑えることができ、試料がもともと少量しか用意できない場合であってもマススペクトルを得ることができる。
本発明に係る質量分析装置の一実施例であるMT−TOFMSついて添付図面を参照して説明する。図1はこの実施例のMT−TOFMSの概略構成図、図2は本実施例のMT−TOFMSにおけるイオン偏向部の構成図である。
イオン源1は例えば図示しないイオン化部でイオン化されたイオンを一時的に保持するイオントラップであり、このイオン源1に一旦捕捉された各種イオンは時刻T=0において一斉に所定のエネルギーを付与されてイオンパケットとして出射される。イオンパケットに含まれる各イオンは長さがLinである入射軌道4を飛行したあとに、周回軌道5上に設置されたゲート電極2に到達する。ゲート電極2により形成される電場により各イオンの軌道は曲げられて周回軌道5に導入される。周回軌道5は、周回電圧印加部11から複数組(煩雑になるため図1には1組しか描いていない)の扇形電極3にそれぞれ印加される電圧により生成される電場によって形成される。ゲート電極2は導入・排出電圧印加部12から印加される電圧により、入射軌道4を経て来たイオンを周回軌道5に入射させたり逆に周回軌道5に沿って飛行しているイオンを該軌道5から離脱させて射出軌道6に送ったりする。イオンが周回軌道5に沿って周回している間は、ゲート電極2は実質的に存在しないのと同じである。
周回軌道5に沿って飛行しているイオンはゲート電極2が開放されると、周回軌道5から離脱して長さがLoutである射出軌道6に入る。射出軌道6上には該軌道6に沿ったイオンの進行方向(Z方向)に直交し、且つ互いに直交するX方向、Y方向にそれぞれ対向する2組の偏向電極(図2中の偏向電極71、72の組、偏向電極73、74の組)からなる偏向器7が配置されている。この偏向器7において偏向電圧印加部13から各偏向電極に印加される電圧に応じて形成される電場の作用によりイオンは軌道を曲げられ、微小検出器がX方向、Y方向に2次元的に配列された2次元検出器8に到着する。
2次元検出器8としては、例えば複数の微小検出器が配列されるマイクロチャンネルプレート(MCP)とディレイラインアノード(delay-line anode)とを組み合わせた検出器などを用いることができる。また例えば、1個の検出器で構成される2次元用のバックギャモン型イオンチェンバや位置感応型平行平板検出器などを用いることもできる。また、偏向電場の作用によるイオン軌道の曲がりが1次元方向のみである場合には2次元検出器でなく1次元検出器を用いればよい。1次元検出器としては、例えば複数の微小検出器が配列される1次元マイクロチャンネルプレートとディレイラインアノードとを組み合わせた検出器などを用いることができる。また例えば1個の検出器で構成される1次元用の位置感応型比例計数管などを用いることもできる。
2次元検出器8は時間経過に伴って順次到達するイオンを検出するが、各微小検出器はそれぞれ独立に入射したイオンの量に応じた検出信号を出力するため、この2次元検出器8では、イオンの到着時刻(Tdet)、到着したイオンの量(強度)という情報のほかに、検出面上でのイオン到着位置の情報も並行して得ることができる。ここでは、検出面上でのイオン到着位置の位置情報を、微小検出器が存在する、X方向、Y方向のアドレス(Xdet,Ydet)で表すものとする。
イオン源1からのイオン出射時点からの時間経過に伴って2次元検出器8で得られた検出信号はデータ処理部14に入力される。データ処理部14は、2次元検出器8からの検出信号を受けて該信号をデジタル化し、後述するように、イオンの到着時刻Tdet及びイオン到着位置(Xdet,Ydet)に基づいて到着したイオンの周回数をそれぞれ推定し、推定した周回数から飛行距離を求めて飛行時間を正確な質量電荷比に換算する。そして、各イオンの質量電荷比を求めてマススペクトルを作成する。制御部10は目的の試料に対する1乃至複数回の測定を実行し、さらにその測定で得られたデータに基づいてマススペクトルを作成するために、各部の動作を制御する。
なお、データ処理部14及び制御部10の機能の多くは、汎用のパーソナルコンピュータに予めインストールされた専用の処理・制御ソフトウエアを該コンピュータで実行することにより達成されるようにすることができる。
上述したようにイオンが周回軌道5上を飛行する際に速度の速いイオンつまりは質量電荷比の小さなイオンは、速度の遅いイオンつまりは質量電荷比の大きなイオンを追い越すため、様々な周回数のイオンが周回軌道5上では混在する。ゲート電極2が開かれてイオンが射出軌道6上を飛行する際も同様である。各イオンの周回数が不明であると飛行時間から質量電荷比を求めることができないが、本実施例のMT−TOFMSでは次のような原理により各イオンの周回数を推定している。図3は周回数推定の原理説明図である。
図3において(a)は、偏向器7の出口端と2次元検出器8の検出面との間におけるイオンの質量電荷比と時刻との関係を示す図であり、(b)は偏向器7における偏向電場の強さの時間変化を示す図である。いま、図3(a)において「0」で示している時点で2次元検出器8の検出面に質量電荷比m/zが異なる或る二種類のイオン(m/z小のイオンをM1、m/z大のイオンをM2とする)が同時に到達したものとする。質量電荷比が小さなイオンのほうが速度が速いため、時刻「0」より遡った−t1の時点でイオンM1は偏向器7を通過し、それよりもさらに遡った−t2の時点でイオンM2は偏向器7を通過した筈である。イオンM1、M2の質量電荷比の差が大きいほど、−t2と−t1との時間差は大きくなる。一方、偏向器7における偏向電場は(b)に示すように時間の経過に伴って強くなるように制御されているとすれば、時間的に早いイオンM2よりも遅いイオンM1のほうが強い電場を受ける。そのため、質量電荷比が小さなイオンM1のほうが質量電荷比が大きなイオンM2に比べて偏向電場による変位量が大きくなり、同時に2次元検出器8の検出面に到達してもイオンM1の到達位置とイオンM2の到達位置とはイオンの変位方向に相違する。
このように、同時に検出面に到達する複数種のイオンはその質量電荷比に応じて検出面上の異なる位置に到達することになる。偏向電場を通過したイオンが検出面上の到達するときの位置ずれ量、つまり変位量はそのイオンが偏向電場を通過するときのその電場の強さに依存する。電場の強さは偏向器7(つまりは偏向電極71〜74)に印加される電圧により決まるから、例えば後述するようにゲート電極2の開放タイミングなど決まった時点から既知の変化をする電圧を偏向器7に与えるという条件の下では、変位量は時間により決まる。また、図2に示すように、X、Yの2方向に偏向電場が形成される場合には、両方の電場の強さの割合によって変位の方向が決まる。変位量や変位方向は2次元検出器8の検出面上における微小検出器のアドレス(Xdet,Ydet)で表されるから、イオンが到達した微小検出器のアドレス(Xdet,Ydet)からそのイオンが偏向器7を通過した時刻(Tdeflect)を推定することができる。また、この時刻Tdeflectとそのイオンが実際に2次元検出器8に到達した時刻Tdetとから求まる時間差、及び偏向器7と2次元検出器8との間の距離L3とから、そのイオンの飛行速度が求まる。イオンの飛行速度が分かれば、その飛行速度と飛行時間とからおおよその周回数を推定することが可能となる。
以上のように、本実施例のMT−TOFMSでは、偏向器7に時間的に変化する電圧を与えて通過するイオンを偏向させたときに2次元検出器8の検出面上でイオンが到達する位置の情報とその到達時刻の情報とに基づいて、そのイオンのおおそよの周回数を求めることができる。
次に、上述したように周回数の推定が可能であることをシミュレーション計算により検証した結果を説明する。図4はシミュレーションの際の射出軌道に沿った構成要素のモデルを示す図、図5はシミュレーションの際の信号タイミング図である。このシミュレーションでは、入射軌道4の軌道長Lin=0.5[m]、周回軌道5の1周の軌道長Lturn=1[m]、射出軌道6の軌道長Lout=0.5[m]とした。また、計算を簡単化するために、ゲート電極2の長さは無視し、射出軌道6上には偏向器7としてZ方向の長さ(L2)が0.1[m]である1次元の偏向電極(対向する偏向電極間のギャップ間隔:10[mm])を射出軌道6の中央に設置した(L1=L3=0.2[m])。したがって、ここではイオンの変位方向はY方向のみを考える。また、イオン源1におけるイオン出射時の加速エネルギーは7[kV]とし、500[Da]から2000[Da]まで50[Da]ステップの31種のイオン群を時刻T=0にイオン源1から出射させ、イオンが周回軌道5に沿って多重周回した後に、Tx=200[μs]の時点でゲート電極2を開放して射出軌道6にイオンを送り出すようにした。一方、偏向電極には、図5に示すように、ゲート電極2の開放のタイミング(Tx=200[μs]と同期して立ち上がり始める鋸波状の電圧を印加した。対向する偏向電極に印加する電圧の差の変化率は100[V]/50[μs]である。
同一質量電荷比を有するイオンのパケット幅を2[ns]としたときにシミュレーション計算により求めた飛行時間スペクトルを図6に示す。図6(a)には0周回(イオンは周回軌道5を通ることなく入射軌道4から直接的に射出軌道6に進んで2次元検出器8に到達する)のときの飛行時間スペクトルを示す。図中の数字はイオンの質量電荷比を示しており、各イオンの強度は50から200まで5ステップとした。このときの質量分解能は9860程度である。
一方、図6(b)は、上述したようにイオンを周回軌道5に乗せたあとにTx=200[μs]でゲート電極2を開放し、且つ偏向電場を形成しない条件の下で得られる飛行時間スペクトルである。図中には参考としてイオンの質量電荷比と周回数とを数値で記した。もちろん、これら数値は実際には未知である。図6(b)に示したようにイオンを多重周回させることで質量分解能は63500まで改善するが、イオンの追越しが起こるために、飛行時間スペクトルをマススペクトルに直接変換できないことが理解できる。また特筆すべき点として、800[Da](8周回)のピークと1800[Da](5周回)のピークとが偶発的に重なっており、こうしたピークの重なりも飛行時間スペクトルをマススペクトルに変換する際に、精度低下をもたらすとともにピークの帰属を困難とすることから問題となる。
図7は図5に示した時間的に変化する電圧を偏向電極に印加した場合の、各種イオンの飛行時間とY方向変位量(2次元検出器8の検出面上でのイオン到達位置のずれ量)との関係を計算した結果をまとめた図である。図中の数値はイオンの質量電荷比である。図6(b)に示した従来の飛行時間スペクトルでは重なっていた、つまりほぼ同じ飛行時間を示す800[Da]のイオンと1800[Da]のイオンとが2次元検出器8の検出面上における検出位置の違いとして明瞭に分離されていることが分かる。また、質量電荷比が相違しても周回数が同一であるイオンは厳密に同じ直線上に乗り、各周回数に対応した直線は重なることなく明瞭に分離されていることから、1回の測定でも変位量に基づく周回数の推定が容易に行えることが分かる。
また、図7中に示す直線は飛行時間とY方向変位量とから周回数を求めるための一種の校正線であると捉えることができる。即ち、このような関係を予め測定して例えば数式化又はテーブル化し校正情報としてデータ処理部14の内部に記憶しておくことにより、未知試料の測定時に得られた飛行時間とY方向変位量とをその校正情報に照らして周回数を求めることができる。
次に、上記のような原理を利用した本実施例のMT−TOFMSにおける特徴的な分析動作の一例を説明する。
このMT−TOFMSでは、イオン源1から時刻T=0でイオンを一斉に出射させ、ゲート電極2を通して周回軌道5にイオンを乗せたあと、T=Txの時点(以下「ゲート開放時刻」という)でゲート電極2を開放し、周回軌道5からイオンを射出軌道6へと導く。前述のように、ゲート開放時刻Txが或る程度大きい場合、つまり周回軌道5上にイオンが存在する時間が比較的長い場合には、周回軌道5に沿って飛行する間に低質量電荷比のイオンが高質量電荷比のイオンを追い越してしまうため、射出軌道6に導かれたイオンは周回軌道5の周回数が異なるものが混在する。そこで、質量電荷比の相違するイオン毎に、質量電荷比を算出する上で必要な周回数情報を得るために、偏向電圧印加部13を構成するY方向偏向電圧印加部131及びX方向偏向電圧印加部132は、一定電圧ではなく時間経過に伴って変化する電圧を偏向器7の2組の偏向電極71〜74にそれぞれ印加する。Y方向偏向電圧印加部131及びX方向偏向電圧印加部132からそれぞれ印加される電圧は同期しながらもそれぞれ異なる値の電圧である。
偏向電圧の時間的変化の開始タイミングは、例えば飛行開始のタイミング(つまりT=0)又はゲート電極2開放のタイミング(T=Tx)と同期させる。前述の図5は後者の例であり、T=Txの時点から偏向電圧を直線的に増加させるようにしている。このように印加される電圧によって偏向電極71〜74の内部空間に形成される電場は、入射してくるイオンの飛行方向の中心軸方向(図1、図2中のZ方向)に対し垂直(図1、図2中のX方向、Y方向)であるので、イオンのZ方向の運動には偏向電場は影響せず、それ故に偏向電場は各イオンの飛行時間には影響しない。
一方、前述のように、偏向器7中の偏向電場の作用によってイオンは偏向し、その偏向量は電場の強さ(つまりは印加電圧の大きさ)に依存する。また、イオンの偏向方向はX方向とY方向それぞれの電場の強さの割合に依存する。したがって、前述のように、同時に2次元検出器8に到達するイオンであっても、質量電荷比に応じて2次元検出器8の検出面上で異なる位置に到達する。2次元検出器8からは時間経過に伴って、各微小検出器毎に到達したイオン量に応じた検出信号がデータ処理部14に出力されるから、データ処理部14は時間、位置、強度という情報を持つデータを処理することにより、到達した各イオンの飛行速度を推算してこれからおおよその周回数を求める。或いは、上述したように予め飛行時間及び変位量(位置情報)に対する周回数の関係を求めて較正情報を作成しておけば、飛行速度を推定することなく周回数を求めることもできる。
イオンの周回数が判明すればイオン源1から2次元検出器8までの飛行距離が確定するから、これを用いてデータ処理部14はそのイオンの到達時刻から求まる飛行時間から質量電荷比を計算する。時間経過に伴って2次元検出器8から得られる検出信号に基づいて、イオン毎のおおよその周回数を求め、求めた周回数を利用して質量電荷比を計算することで、最終的に、高精度のマススペクトルを取得することができる。
ただし、本実施例の構成の場合、周回軌道5に沿って周回しているイオンを射出軌道6へ導くためにゲート電極2を開放する際に、ちょうどゲート電極2を通過しようとしているイオンがあると、そのイオンの軌道は乱れて消失してしまう、即ち2次元検出器8に到達しない可能性がある。そのため、1つの試料に対して1回の測定を行った結果に基づいてマススペクトルを作成すると、上記のように途中で消失したイオンに対するピークが欠落してしまうおそれがある。そこで、こうした不具合を避けるためには、同一試料に対し、互いに異なるゲート開放時刻Txを設定した条件の下で少なくとも2回の測定を実行してそれぞれマススペクトルを作成し、それらマススペクトルを統合して消失したイオンを補ったマススペクトルを作成すればよい。
前述のように、2次元検出器8の検出面上でイオンが到達する位置は偏向器7による偏向電場(図2の例の場合にはX方向の電場とY方向の電場)に依存する。したがって、上記実施例のMT−TOFMSでは、Y方向偏向電圧印加部131から1組の偏向電極71、72に印加する電圧とX方向偏向電圧印加部132から別の組の偏向電極73、74に印加する電圧とをそれぞれ適当に定めることにより、2次元検出器8の検出面上でイオンが到達する位置の時間経過に伴う移動状況、つまりはイオン到達位置の移動軌跡を様々に定めることができる。その例を図8に示す。
X方向偏向電圧印加部132から偏向電極73、74に電圧を印加せず、Y方向偏向電圧印加部131から偏向電極71、72に対し図5に示すような電圧を印加した場合には、イオン到達位置の移動軌跡は図8(a)に示すように初期位置(中心位置)OからY方向に延びる線上の範囲に留まる。X方向偏向電圧印加部132から偏向電極73、74に電圧を印加せず、Y方向偏向電圧印加部131から偏向電極71、72に対し正方向、負方向に振るような電圧を印加した場合には、イオン到達位置の移動軌跡は図8(b)に示すように初期位置(中心位置)Oを中心としたY方向に延びる線上の範囲となる。
また、X方向偏向電圧印加部132から偏向電極73、74に対し図5に示すように相対的に緩慢に変化する鋸波形状の電圧を印加し、Y方向偏向電圧印加部131から偏向電極71、72に対しては数倍〜十倍程度速い(周期が短い)鋸波形状の電圧を印加した場合、イオン到達位置の移動軌跡は図8(c)に示すように略鋸波形状となる。また、偏向電極に印加される時間的変動を伴う電圧の変化率は直線である必要はなく、2次元検出器8の検出面上の位置情報から偏向器7をイオンが通過した時刻を逆算できるような(好ましくは逆算が容易である)波形ならばどのような波形でも構わない。例えばX方向、Y方向の電場の強度が正弦関数、余弦関数に比例し、且つその比例係数が時間経過に伴って大きくなる又は逆に小さくなるように印加電圧を定めることにより、イオン到達位置の移動軌跡を図8(d)に示すような渦巻き状にすることも可能である。また、イオン到達位置の出発点や最終点は中心位置Oである必要はないから、例えば円形状、楕円形状等のリサージュ形状となるようにしてもよい。
図7から分かるように、同一の飛行時間でみたときに全体の変位量が小さいと周回数の判別は難しくなる。したがって、周回数の判別を容易にするには、換言すれば周回数の判別の精度を上げるには、できるだけ全体の変位量を大きくする、即ち、イオン到達位置の移動軌跡をできるだけ長くすることが好ましい。そうした意味から、X方向又はY方向の一方向のみにイオンを偏向させるのでなく、図8(c)、(d)に例示したように2次元的にイオンを偏向させるほうが有利である。
上記実施例は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜、変更や修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
例えば、上記実施例は略同一の周回軌道に沿ってイオンを多数回周回させる構成の質量分析装置に本発明を適用する例であるが、例えば対向して2つのリフレクトロンを配置したような多重反射型の質量分析装置に本発明を適用できることは明らかである。