糖鎖やペプチドなどの高分子化合物の同定や構造解析においては、MALDI(マトリクス支援レーザ脱離イオン化)イオン源と3次元四重極型イオントラップとを搭載したイオントラップ質量分析装置が広く用いられている。イオントラップに一時的に保持した各種イオンを質量分析する手法としては、イオントラップ自体の質量分離機能を利用する場合と、イオントラップから一斉にイオンを吐き出しイオントラップ外部に設けた飛行時間型質量分析器(TOFMS)により質量分離して検出する場合とがあるが、ここでは両者を含めてイオントラップ質量分析装置ということとする。
イオントラップ質量分析装置を用いた高分子化合物に対する一般的な分析手法は次の通りである。
即ち、分析目的である化合物をMALDI法によりイオン化してイオントラップ内に捕捉したあと、特定の質量電荷比m/zを有するイオンをプリカーサイオンとして選択的にイオントラップ内に残し、他の不要なイオンをイオントラップ外部に排出するようなプリカーサ選別操作を行う。その後、イオントラップ内に衝突誘起解離(Collision-Induced Dissosiation:CID)ガスを導入し、プリカーサイオンを励振してCIDガスに衝突させることで解離を促す。場合によっては、1回のCID操作では目的とする化合物の構造体が十分に分解しないため、そうした場合には、プリカーサ選別操作とCID操作とを複数回繰り返す。そうして分析対象の化合物由来のイオンに対し1回以上のCID操作を行うことで細かく断片化させたプロダクトイオンについて、質量走査を伴うイオンの検出を実行してMSnスペクトルを取得し、このMSnスペクトルを解析して化合物を同定したりその構造を推定したりする。
ところで、MSn分析が可能なイオントラップ質量分析装置やMS/MS(=MS2)分析が可能な三連四重極型質量分析装置においては、擬似MS3(Pseudo-MS3、Quasi-MS3)測定と呼ばれる分析手法が知られている。例えば非特許文献1に記載の三連四重極型質量分析装置では、イオン源で生成されたイオンが前段四重極マスフィルタ(Q1)に導入される前の段階、具体的にはイオン源から前段四重極マスフィルタまでのイオン輸送経路上でインソース分解により生じたプロダクトイオンをMS/MS分析することにより、擬似MS3測定を行うようにしている。
また、イオントラップ質量分析装置、特にMALDIイオン源を用いたイオントラップ質量分析装置では、イオントラップに導入されたイオンをクーリングする際にその分解を促進させ、それにより生成したプロダクトイオンをMS/MS分析することで擬似MS3測定を行うことができる。上述のようにイオントラップ質量分析装置では、擬似MS3測定ではない真のMS3測定を行うことも可能であるが、プリカーサ選別操作及びCID操作を経るMS2分析で生成されるプロダクトイオンの量よりもMS1測定のクーリング中等に生成されるプロダクトイオンの量が多い場合には、真のMS3測定により得られるMS3スペクトルよりも擬似MS3スペクトルのほうがSN比が高く、データ解析を行う際などに有利であるという利点がある。
よく知られているように、3次元四重極型のイオントラップの内部空間に捕捉可能なイオンの質量電荷比範囲には原理的な制約があり、捕捉可能な最小質量イオン(Low Mass Cutoff:LMC)、即ち、m/eの最小値、は理論的に以下の(1)式で表される。
LMC=(V/qr0 2π2)(4π2/Ω2) …(1)
ここで、q=4eV/mr0 2Ω2
ただし、mは質量、eは価数、Vはリング電極に印加される高周波電圧の振幅、qはマシューパラメータ、r0はリング電極の内接半径、Ωは上記高周波電圧の周波数、である。
即ち、上記(1)式で決まるLMCよりも質量電荷比が小さなイオンはイオントラップ内に捕捉されず、質量分析の対象とはならない。(1)式から明らかなように、高周波電圧の振幅Vを低くすればLMCを下げることができるが、そうするとイオントラップの内部に形成される擬似ポテンシャルが浅くなるため、イオンの捕捉効率が全般的に低下することになる。擬似ポテンシャルの低下は特に高質量イオンの捕捉効率の低下につながる。なお、高周波電圧として正弦波を用いる場合のイオントラップの対称軸方向zに対する擬似ポテンシャル深さDzは、次の(2)式で表される。
Dz=0.125qV …(2)
したがって、イオントラップではLMCの値によって捕捉可能なイオンの質量電荷比範囲が決まってしまうことになり、例えば数十〜数千程度の広い範囲の質量電荷比を持つイオンに対する分析を1回の測定で実施することはできない。そのため、従来のイオントラップ質量分析装置では、広い質量電荷比範囲を適宜分割した複数の測定モードを選択可能に用意しておき、分析者によりいずれかの測定モードが指定されるとそれに応じた測定が実施されるようになっている。例えば、m/z 63-9000の幅広い質量電荷比範囲を測定対象とする場合に、測定モード1:m/z 63-800、測定モード2:m/z 200-1350、測定モード3:m/z 400-2600、測定モード4:m/z 650-3800、測定モード5:m/z 950-5100、及び測定モード6:m/z 1600-9000、というように質量電荷比範囲が6つに分割されて6つの測定モードが用意されている。
このように1回の測定で分析可能な質量電荷比が限られていることは、上述した擬似MS3測定を行う上で次のような問題がある。
通常の擬似MS3測定では、目的試料に対するMS2測定で検出されるプロダクトイオン(イオンA)と同じ質量電荷比のイオン(イオンB)ピークが同じ目的試料に対するMS1スペクトル上に現れている場合に、イオンBがイオンAのプリカーサイオンに由来するプロダクトイオンであるとみなし、イオンBに対するMS2測定を実行するようにしている。そのイオンBに対するMS2測定で得られたMS2スペクトルが、目的試料中の化合物に対する擬似MS3スペクトルである。
したがって、上述したように広い質量電荷比範囲が分割された複数の測定モードが用意されている場合には、いずれか1つの測定モードの下で目的試料に対するMS1測定を実行してMS1スペクトルを取得し、そのスペクトルの中からプリカーサイオンを選択してMS2測定を実行することになる。
図8に挙げた例で具体的に説明する。例えばいま測定モード6(m/z 1600-9000)の下で目的試料に対するMS1測定を実行した結果、図8(a)に示すMS1スペクトルが取得されたものとする。また、同じ測定モード6の下で目的試料に対するMS2測定を実行した結果、図8(b)に示すMS2スペクトルが取得されたものとする。このときのプリカーサイオンの質量電荷比は7000である。MS2スペクトル上に現れるm/z 4000のイオンピークはMS1スペクトル上にも十分な強度で現れているから、このm/z 4000のイオンはMS2測定のプリカーサイオンであるm/z 7000のイオンのプロダクトイオンであるとみなし、m/z 4000のイオンに対するMS2測定を実行する。なお、このときにはm/z 4000のプリカーサイオンとそれから生成されるプロダクトイオンが十分に捕捉されるように測定モードは測定モード5に変更される。その結果、図8(c)に示すような擬似MS3スペクトルが得られる。
しかしながら、初めに目的試料に対するMS2測定で検出されたプロダクトイオンの質量電荷比がMS1測定時の測定モードのLMC以下であった場合には、MS1測定時にそのイオンが分解によって生成されていたとしてもイオントラップ内に捕捉されないため、MS1スペクトル上には該イオンのピークは存在しない。そのため、MS1スペクトルとMS2スペクトル上とでピークの比較を行ってもプロダクトイオンの抽出はできず、そのイオンに対する擬似MS3測定を行うことはできない。
図9に挙げた例で具体的に説明する。例えばいま測定モード6(m/z 1600-9000)の下で目的試料に対するMS1測定を実行した結果、図9(a)に示すMS1スペクトルが取得されたものとする。また、同じ測定モード6の下で目的試料に対するMS2測定を実行した結果、図9(b)に示すMS2スペクトルが取得されたものとする。このときのプリカーサイオンの質量電荷比は4000である。MS2スペクトル上には十分な強度でm/z 1500のイオンピークが現れており、これが実際にはプロダクトイオンであるが、m/z 1500は測定モード6のLMC以下であるためにMS1測定では検出されない。そのため、m/z 1500のイオンはMS2測定のプリカーサイオンであるm/z 4000のイオンのプロダクトイオンであるとはみなされず、該イオンに対する擬似MS3測定は実施されないことになる。
また、MS1スペクトルを取得する際には、一般的に試料由来のイオンが測定中に分解せずに検出できることが望ましいため、MS1スペクトル取得のための装置パラメータは極力試料由来イオンの分解が起こらないような値に最適化されている。これに対し、擬似MS3測定では擬似MS3測定の対象となるイオンが多いほうがスペクトルのSN比が良くなるため、MS1測定実行中に試料イオンの分解を極力促進させることが望ましい。そのため、通常のMS1測定に最適化された装置パラメータは擬似MS3測定には必ずしも適しておらず、質量精度や質量分解能、或いは感度などが高いスペクトルを取得するのが困難であるという問題もある。
本発明は上記課題に鑑みて成されたものであり、その目的とするところは、広い質量電荷比範囲が分割された複数の測定モードが切替え可能に用意されている場合であっても、各測定モードにおける最小質量イオンを問題とせず、擬似MS3測定を実施可能な質量電荷比範囲を拡大することができるイオントラップ質量分析装置を提供することである。また、本発明の他の目的は、擬似MS3測定の際に、質量精度や質量分解能、或いは感度などが高いスペクトルを取得することができるイオントラップ質量分析装置を提供することである。
上記課題を解決するために成された本発明は、イオンを捕捉するイオントラップを有し該イオントラップに捕捉されたイオンを解離させてMSn分析(nは2以上の整数)を実施することが可能なイオントラップ質量分析装置であって、広い質量電荷比範囲をカバーするために測定対象の質量電荷比範囲が異なる複数の測定モードが用意され、該複数の測定モードの中の選択された測定モードの下で質量分析が実行されるイオントラップ質量分析装置において、
a)全質量電荷比範囲又は所定の質量電荷比範囲をカバーする複数の測定モードでそれぞれ目的試料に対して質量分析を実行することにより、複数のMS1スペクトルを取得するMS1測定実行手段と、
b)目的試料に対しMS2分析を実行することによりMS2スペクトルを取得するMS2測定実行手段と、
c)前記MS2スペクトルに現れるピークと同一の質量電荷比であるピークを前記複数のMS1スペクトルから抽出することにより擬似MS3測定対象のイオンを決定する擬似MS3測定対象イオン決定手段と、
d)前記擬似MS3測定対象イオン決定手段により決定されたイオンをプリカーサイオンとしたMS2分析を実行することにより擬似MS3スペクトルを取得する擬似MS3測定実行手段と、
を備え、前記擬似MS 3 測定対象イオン決定手段は、前記MS 1 測定実行手段により取得された前記複数のMS 1 スペクトルの中の2以上のMS 1 スペクトル上で擬似MS 3 測定対象のイオンが観測される場合に、イオン強度が高い方のMS 1 スペクトルの測定モードを擬似MS 3 測定時の測定モードとして設定することを特徴としている。
なお、本発明に係るイオントラップ質量分析装置は、MS2測定実行手段及び擬似MS3測定実行手段は、或る測定モードでそれぞれ目的試料由来のイオンをイオントラップ内に捕捉した後に、プリカーサ選別対象のイオンの質量電荷比がより下位の(質量電荷比範囲が低い方の)測定モードでの測定に適したものである場合には、測定モードを自動的に下位の測定モードに切り替えてMS2測定を実施するものとすることができる。これにより、MS2測定では良好なMS2スペクトルを取得することができ、擬似MS3測定では良好なMS3スペクトルを取得することができる。
本発明に係るイオントラップ質量分析装置において、MS1測定実行手段は、例えば低質量電荷比から高質量電荷比までの全質量電荷比範囲(装置の仕様で決まる全質量電荷比範囲)をカバーするように複数の測定モードを設定し、その各測定モードでそれぞれ目的試料に対し質量分析を実行してMS1スペクトルを取得する。これにより、全質量電荷比範囲に亘る目的試料由来の全てのイオンを観測することができる。このイオンには目的試料中の化合物の分子イオンピークもあれば、インソース分解等による分解で生じた一種のプロダクトイオンもあるが、理想的にはこれらが漏れなく検出される。MS2測定実行手段は、同じ目的試料に対してMS2分析を実行し、MS2スペクトルを作成する。なお、このときのプリカーサイオンは同測定モードの下で得られたMS1スペクトルに現れているイオンピークに対し、任意の基準で選択するものとすればよい。例えば、イオン強度が最大であるピーク、イオン強度が所定の閾値以上であるピークなどと基準を決めておけばよい。
擬似MS3測定対象イオン決定手段は、上記MS2スペクトルに現れるピークと同一の質量電荷比であるピークを前記複数のMS1スペクトルから抽出することにより擬似MS3測定対象のイオンを決定する。前述のように複数のMS1スペクトルでは全質量電荷比範囲に亘る目的試料由来の全てのイオンが検出されているから、測定モードの質量電荷比範囲の制約を受けることなく、MS2スペクトルに現れるピークと同一の質量電荷比を持つイオンを抽出することができる。即ち、例えば質量電荷比範囲が比較的高い測定モードでは検出できない(イオントラップ内に捕捉できない)ような低質量電荷比のイオンも抽出し擬似MS3測定対象のイオンとして決定することができる。擬似MS3測定実行手段はそうして決められたイオン(これはインソース分解等で生成されたプロダクトイオンであると考えられる)をプリカーサイオンとしたMS2分析を実行することで擬似MS3測定を実施し、擬似MS3スペクトルを取得する。
以上のようにして本発明に係るイオントラップ質量分析装置では、測定対象の質量電荷比範囲が細かく区分されている場合であっても、従来に比べて広い質量電荷比範囲のイオンを対象とした擬似MS3測定を実施することができる。
また本発明に係るイオントラップ質量分析装置では、擬似MS3測定対象イオン決定手段は、前記MS1測定実行手段により取得された前記複数のMS1スペクトルの中の2以上のMS1スペクトル上で擬似MS3測定対象のイオンが観測される場合に、イオン強度が高い方のMS1スペクトルの測定モードを擬似MS3測定時の測定モードとして設定する。
そのため、擬似MS3測定対象のイオンの量が最も多い条件の下で擬似MS3測定が実施されることになるため、高い感度の擬似MS3スペクトルを取得することができる。
このように質の高い擬似MS3スペクトルを取得するには、擬似MS3測定対象のイオン量ができるだけ多いことが望ましいから、そのイオンの量が少ない場合には積極的にイオン量を増やす、つまりは擬似MS3測定対象イオン生成効率を増加させるように装置パラメータを調整するようにしてもよい。
具体的には、本発明に係るイオントラップ質量分析装置にあってイオン源がMALDIイオン源である場合には、前記MS2スペクトルと前記複数のMS1スペクトルとに基づいて決められた擬似MS3測定対象のイオンのそのMS1スペクトル上でのイオン強度に応じて、MALDIイオン源におけるイオン化のためのレーザ光の強度を変更する制御手段をさらに備える構成とするとよい。
レーザ光の強度を或る程度上げると、試料由来のイオンの内部エネルギが高くなってイオントラップに到達するまで或いはイオントラップ内に捕捉されている間(例えばクーリング中)に分解し易くなる。それにより、擬似MS3測定対象イオン生成効率を増加させることができる。
また別の具体例として、本発明に係るイオントラップ質量分析装置では、前記MS2スペクトルと前記複数のMS1スペクトルとに基づいて決められた擬似MS3測定対象のイオンのそのMS1スペクトル上でのイオン強度に応じて、イオントラップに捕捉したイオンをクーリングする際に使用されるクーリングガスの種類を変更する制御手段をさらに備える構成としてもよい。一般に、クーリングガスとして重いガスを用いた方が、イオントラップ内に捕捉されているイオンをクーリングする際に分解が促進される。例えば、イオンの分解をできるだけ起こさないようにヘリウム等の軽い不活性ガスをクーリングガスとして用いている場合に、擬似MS3測定で測定対象イオンを増やしたいときはクーリングガスをアルゴンに変更するとよい。それにより、擬似MS3測定対象イオン生成効率を増加させることができる。
本発明に係るイオントラップ質量分析装置によれば、測定対象の質量電荷比範囲が限定された複数の測定モードが予め用意されている場合であっても、そうした限定に拘わらず、広い質量電荷比範囲のイオンを対象とした擬似MS3測定を実施することができる。それにより、擬似MS3測定の利用範囲を拡げることができる。
以下、本発明の一実施例であるイオントラップ質量分析装置について、添付図面を参照して説明する。
図1は本実施例のイオントラップ質量分析装置の全体構成図である。このイオントラップ質量分析装置は、目的試料をイオン化するイオン源1と、イオンを保持するとともに質量電荷比に応じて分離する3次元四重極型のイオントラップ2と、イオンを検出する検出部3と、を備える。
イオン源1はMALDI法を用いたMALDIイオン源であり、パルス状のレーザ光を出射するレーザ照射部11、目的化合物を含むサンプルSが付着されたサンプルプレート12、レーザ光の照射によってサンプルSから放出されたイオンを引き出すとともにその引き出し方向を限定するアパーチャ13、引き出されたイオンを案内するイオンレンズ14、などを含む。
イオントラップ2は、円環状の1個のリング電極21と、これを挟むように対向して配置された、入口側エンドキャップ電極22及び出口側エンドキャップ電極24と、からなり、これら3個の電極21、22、24で囲まれた空間が捕捉領域となる。入口側エンドキャップ電極22の略中央にはイオン入射口23が穿設され、イオン源1から出射したイオンはイオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。一方、出口側エンドキャップ電極24の略中央にはイオン出射口25が穿設され、イオン出射口25を経てイオントラップ2内から排出されたイオンは検出部3に到達して検出される。さらに、イオントラップ2には、ガス導入管41、ガス選択バルブ42、クーリングガス供給源43、CIDガス供給源44などを含むガス供給部4が付設されている。
検出部3は、イオンを電子に変換するコンバージョンダイノード31と、コンバージョンダイノード31から到来する電子を増倍して検出する二次電子増倍管32とからなり、入射したイオンの量に応じた検出信号をデータ処理部5に送る。データ処理部5は、イオントラップ2において質量分離されつつ順次排出されるイオンに対して検出部3で得られる検出信号に基づいてMSnスペクトルを作成するスペクトル作成部51、MSnスペクトルを記憶するスペクトル記憶部52、MSnスペクトルデータを用いて擬似MS3測定対象イオンを決定する擬似MS3測定イオン判定部53などの機能ブロックを含む。
主電源部7は制御部6による制御の下に、イオントラップ2のリング電極21にイオン捕捉用の矩形波電圧を印加するものである。イオン捕捉用矩形波電圧は例えば振幅が±100V〜1kV程度の範囲であり、また周波数fは通常数十kHz〜数MHz程度の範囲である。補助電源部8は、イオントラップ2に捕捉されているイオンを低エネルギCIDする際に該当イオンを共鳴励振させたり、或いは、イオントラップ2からイオンを排出したりするために、エンドキャップ電極22、24にそれぞれ相違する矩形波低電圧を印加するものである。
制御部6は主電源部7、補助電源部8のほか、レーザ照射部11、ガス選択バルブ42、データ処理部5などの各部を制御する機能も有する。また制御部6は分析を実行するために測定の手順、つまり測定シーケンスを制御プログラムとして備えているが、この実施例の質量分析装置では、後述する擬似MS3測定を実施するための特徴的な測定シーケンスを制御プログラムの一部に含む。なお、制御部6及びデータ処理部5はパーソナルコンピュータに予めインストールされた専用の処理・制御ソフトウエアを実行することにより、後述する各機能を実施する構成とすることができる。
このイオントラップ質量分析装置は測定対象の質量電荷比範囲がm/z 63-9000と幅広いが、この全質量電荷比範囲を6つに分割した測定モード1〜6なる6つの測定モードが用意されている。各測定モードと質量電荷比範囲との関係は、測定モード1:m/z 63-800、測定モード2:m/z 200-1350、測定モード3:m/z 400-2600、測定モード4:m/z 650-3800、測定モード5:m/z 950-5100、測定モード6:m/z 1600-9000である。
本実施例のイオントラップ質量分析装置は、擬似MS3測定を行う際の制御及び処理に特徴を有する。この特徴的な制御及び処理について図2及び図3を参照しつつ説明する。図2は擬似MS3測定を行う際のフローチャートであり、図3は擬似MS3測定を実施する際の処理の一例を示すスペクトルである。
擬似MS3測定を行う際には、分析者は測定したい質量電荷比範囲を漏れなくカバーするように、図示しない入力部で所定の操作を行うことで複数の測定モードを指定する。ここでは、m/z 67-9000の全質量電荷比範囲をカバーするために、測定モード1(m/z 63-800)、測定モード3(m/z 400-2600)及び測定モード6(m/z 1600-9000)の3種の測定モードを指定したものとする。もちろん、測定モード1〜6の全てを指定してもよい。なお、質量電荷比範囲が分析者により指定されると適切な複数の測定モードが自動的に選択されて設定されるようにしてもよい。
上記のように測定モードが設定された上で分析者が分析開始を指示すると、この指示を受けた制御部6の制御の下に、設定された複数の測定モード、即ち測定モード1、3及び6の下でそれぞれ同一のサンプルSに対する質量分析(MS1分析)が実行され、その分析によって得られたデータに基づいてMS1スペクトルが作成される(ステップS1)。
より詳しく説明すると、制御部6の制御の下にレーザ照射部11は短時間レーザ光を出射する。このレーザ光はサンプル(目的試料)Sに照射され、サンプルS中のマトリクスは急速に加熱されて目的化合物を伴い気化する。この際に目的化合物がイオン化される。レーザ照射により発生したイオンはイオンレンズ14により形成される静電場によって収束され、イオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。そして、主電源部7から印加されるイオン捕捉用矩形波電圧に応じて形成される高周波電場によりイオントラップ2の内部空間に所定の質量電荷比範囲のイオンが捕捉され、クーリングガスに接触してクーリングされる。
所定時間クーリングを行うことによりイオンを捕捉空間の中央付近に集めた後に、制御部6は、イオントラップ2内から順次異なる質量電荷比を持つイオンが排出されるように、主電源部7及び補助電源部8から各電極21、22、23に印加される電圧を制御する。データ処理部5にあってスペクトル作成部51は上記のような質量走査に伴って検出部3で得られるイオン強度信号を受け取り、所定の質量電荷比範囲に亘るMS1スペクトルを作成しスペクトル記憶部52に保存する。イオントラップ2に捕捉するイオンの質量電荷比範囲を測定モード1、3及び6のそれぞれに適合するように切り替えつつ3回の測定が実施されることにより、同一の目的試料に対する3つのMS1スペクトルがスペクトル記憶部52に格納されることになる。
次に、同じ目的試料に対するMS2測定を実行してMS2スペクトルを取得する(ステップS2)。制御部6は、MS2測定(及び擬似MS3測定でも)を実施する際に、プリカーサイオンとして選択されたイオンの質量電荷比が下位(質量電荷比が低いほう)の測定モードの最高質量電荷比の質量校正点である質量電荷比以下になった場合、測定モードを自動的に下位の測定モードに切り替えた上でMS2分析を実行する機能を有する。いま、測定モード6で取得したMS1スペクトルの中でm/z 4000のイオンがMS2分析のためのプリカーサイオンに設定されたものとする。測定モード6よりも下位である測定モード5の最高質量校正点はm/z 4982(=M1)であり、さらに下位である測定モード4の最高質量校正点はm/z 3658(=M2)であるとすると、プリカーサイオンの質量電荷比はM1以下でM2以上であるから、測定モードは6から5に切り替わってMS2分析が実行される。
MS2分析では、上述したMS1測定と同様に所定質量電荷比範囲のイオンがイオントラップ2の内部空間に捕捉された後に、プリカーサイオンのみイオントラップ2の内部空間に残り他の質量電荷比のイオンが共鳴排出されるように、各電極21、22、23に所定の電圧が印加される。それによりプリカーサイオンが選別された後、CIDガスがイオントラップ2内に導入され、プリカーサイオンが励振されることでプリカーサイオンのCIDによる解離が促進される。プリカーサイオン選別の際に、上述のように測定モードは6から5に切り替えられる。それによって、プリカーサイオン及びCIDにより生成されるプロダクトイオンは高い効率で捕捉される。そして、CID実施後にクーリングを実行し、その後にイオントラップ2内から順次異なる質量電荷比を持つプロダクトイオンを排出させて検出部3で検出する。データ処理部5にあってスペクトル作成部51はその質量走査に伴って検出部3で得られるイオン強度信号を受け取り、所定の質量電荷比範囲に亘るMS2スペクトルを作成しスペクトル記憶部52に保存する。
図3(a)はステップS1で得られた異なる測定モードに対する3つのMS1スペクトルの例であり、図3(b)はステップS2で得られた1つのMS2スペクトルの例である。
次に、データ処理部5にあって擬似MS3測定イオン判定部53は、スペクトル記憶部52に保存されているMS2スペクトルに現れているピークの質量電荷比を収集しMS2ピークリストを作成するとともに、同じくスペクトル記憶部52に保存されている3つのMS1スペクトルに現れているピークの中でプリカーサイオンの質量電荷比(上記例ではm/z 4000)よりも小さな質量電荷比を収集しMS1ピークリストを作成する。そして、MS2ピークリストに挙げられた質量電荷比とMS1ピークリストに挙げられた質量電荷比との共通性を判定し、同一であるとみなせる(質量電荷比差が許容範囲内に収まる)ものを擬似MS3測定対象イオンとして抽出する(ステップS3)。図3の例では、MS2スペクトルにはm/z 1500のピークが出現しているが、この質量電荷比を持つイオンは測定モード3のMS1スペクトルでも検出されていることから、このMS1スペクトルで検出されたm/z 1500のイオンはm/z 4000であるイオンが解離して生じたプロダクトイオンである可能性が高いと判断し、これを擬似MS3測定対象イオンとして抽出する。
また擬似MS3測定イオン判定部53は、複数のMS1スペクトルの中で擬似MS3測定対象イオンの量が最も多い、つまりピーク強度が最も大きいMS1スペクトルを見つけ、そのMS1スペクトルに対応した測定モードが擬似MS3測定のために適した測定モードであると判断する。そして、擬似MS3測定対象イオンの質量電荷比と上記測定モードとを擬似MS3測定条件として制御部6に設定する(ステップS4)。図3の例では、m/z 1500であるイオンが検出されているのは測定モード3の下でのMS1スペクトルだけであるから擬似MS3測定条件として設定される測定モードは「3」であるが、複数のMS1スペクトルに同じ質量電荷比のイオンが検出されている場合には最大のピーク強度を与えるMS1スペクトルの測定モードを擬似MS3測定条件として設定すればよい。
次に、制御部6はプリカーサイオンの質量電荷比をm/z 1500に設定し、且つ測定モードを測定モード3にして擬似MS3測定を実施するように各部を制御し、擬似MS3スペクトルを取得する(ステップS5)。擬似MS3測定は実質的にはMS2測定と同じであり、測定モード3でのMS1測定と同様に、イオン源1において目的試料をイオン化し、各種イオンの中で測定モード3に対応した所定質量電荷比範囲(m/z 400-2600)のイオンをイオントラップ2の内部空間に捕捉する。その後に、m/z 1500であるプリカーサイオンのみがイオントラップ2の内部空間に残り他の質量電荷比のイオンが共鳴排出されるように、各電極21、22、23に所定の電圧が印加される。
それによってプリカーサイオンが選別された後、CIDガスがイオントラップ2内に導入され、プリカーサイオンが励振されることでプリカーサイオンのCIDによる解離が促進される。そして、CID実施後にクーリングを実行し、その後にイオントラップ2内から順次異なる質量電荷比を持つプロダクトイオンを排出させて検出部3で検出する。データ処理部5にあってスペクトル作成部51はその質量走査に伴って検出部3で得られるイオン強度信号を受け取り、所定の質量電荷比範囲に亘る擬似MS3スペクトルを作成する。これにより、例えば図3(c)に示すような擬似MS3スペクトルが得られる。
仮に、ステップS1において測定モード6のMS1スペクトルのみしか取得していないとすると、このMS1スペクトルにはm/z 1500のイオンは観測されていないので、ステップS3においてm/z 1500のイオンをMS1スペクトル、MS2スペクトルに共通するイオンピークとして抽出することはできない。そのため、m/z 1500のイオンをプリカーサイオンとする擬似MS3測定は行えないことになる。これに対し、本実施例のイオントラップ質量分析装置では、初めに広範囲の質量電荷比範囲をカバーするように複数の測定モードでMS1スペクトルを取得し、それら複数のMS1スペクトルに現れているイオンピークとMS2スペクトルに現れているイオンピークとの共通性を判断して擬似MS3測定対象イオンを決めているので、擬似MS3測定対象イオンの質量電荷比範囲が広がることになる。
ところで、擬似MS3測定のための測定対象イオンを見出すため、及び、擬似MS3スペクトルの感度やSN比を高めるためには、MS1スペクトル測定の段階或いは擬似MS3測定でCID実施までの段階で目的化合物由来のイオンの分解(インソース分解等)をできるだけ促進させることが望ましい。これが、単なる質量分析やMS2分析とは異なる点である。そこで、上記ステップS1のMS1スペクトル取得時やステップS5の擬似MS3スペクトル取得時に、以下のような手法を採ることができる。
イオン源1としてMALDIイオン源を用いた場合、サンプルSに照射するレーザ光のパワーを上げることにより試料イオンの内部エネルギが高くなり、インソース分解やクーリングガスとの衝突によるイオンの分解が促進される。レーザ光のパワーとMS1スペクトル上のピーク強度との関係を実測により求めた結果を図5に示す。これは、図4に示した構造であるウシのフェツイン糖ペプチドを測定モード6で質量分析した際の、その分析中の分解により生じた糖ペプチド由来のプロダクトイオン強度をレーザ光のパワーをパラメータとしてプロットしたものである。レーザ光のパワーを増加させることにより、プロトン付加イオン[M+H]+のピーク強度が減じる一方、シアル酸脱離イオンやペプチド部位で開裂したイオン(y10)のピーク強度が増加していることが分かる。
また、イオントラップ2に捕捉したイオンをクーリングする際のクーリングガスとして質量の大きなガスを用いると、試料イオンがクーリングガスに接触したときに受けるエネルギがそれだけ大きいために分解が促進される。クーリングガスとしてヘリウムを用いた場合とそれに比べて格段に重いアルゴンを用いた場合との試料イオン由来のプロダクトイオン強度の実測結果を図6に示す。これは、上記のフェツイン糖ペプチド由来のイオンを、測定モード4で3回測定して取得したMS1スペクトルを平均したものである。また、MS1スペクトル上で観測されるm/z 918、m/z 1198、m/z 2259の3つのイオンピークについての強度値をまとめたものを図7に示す。この結果から、クーリングガスとしてアルゴンを用いることにより、ヘリウムを用いた場合と比べて2〜4倍程度プロダクトイオン量が増加することが分かる。
そこで、本実施例のイオントラップ質量分析装置では、ステップS1のMS1スペクトル取得時やステップS5の擬似MS3スペクトル取得時に、通常の分析時よりもレーザ照射部11から出射するレーザ光のパワーを上げるとともに、クーリングガス供給源43から供給するクーリングガスをヘリウムからアルゴンに切り替える。それにより、試料イオンの分解が促進され、擬似MS3測定対象イオンの量も増加するため、例えば擬似MS3スペクトルの感度が向上する。
もちろん、クーリングガスとしてアルゴンよりさらに質量の大きな不活性ガスであるクリプトンやキセノンを用いてもよいし、アルゴンよりは軽いがヘリウムより重い窒素やネオンをアルゴンの代わりに用いてもよい。
また、上記実施例のイオントラップ質量分析装置では、矩形波電圧により駆動されるデジタルイオントラップを利用しているが、正弦波電圧により駆動される一般的なイオントラップを利用してもよい。また、イオントラップは3次元四重極型のイオントラップでなくてもリニア型のイオントラップでもよい。
また、イオン源はMALDIイオン源でなくてもよく、レーザ光を利用した他のイオン化法によるイオン源やエレクトロスプレイイオン源などのイオン源でもよい。こうしたイオン源を用いた場合にはMALDIイオン源に比較するとイオンの分解が進みにくいため、例えばクーリングガスのガス圧を上げたり或いはイオン源からイオントラップまでのイオン経路上に設けたイオン輸送光学系の形状や構造を工夫することにより、イオンが分解し易いようにするとよい。
また、上記実施例は本発明の一例にすぎないから、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加等を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。