JP6808572B2 - 超指向性スピーカーシステム - Google Patents

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本発明は、連鎖的多層的因果関係または生態系的関係(エコロジー)または対話性(「人−人工物」間のインタラクション)または循環性(フィードバック・ループ)、を確立するシステム又は機構又は装置に関する。
あるアクターなるものは、自身が関係を持つ伝統を時として強く主張するようである。本稿はある三部作の観客の行動から観察された「文化性」(culturality)について論じる。この三部作は一種のインタラクティブ空間である。文化性とは、伝統的行動のように、多面的であり時として象徴的に映るものであり、分析の過程において暫定的に3タイプへ分類され得るようである。文化性という概念は、無縛な、または自己批判的超積極的な、性格を持つ概念として、さまざまな文化の柔軟な理解を可能にすると思われる。いわば文化性とは、ある物や本質[骨董品]であるというより、波のように理解され得る。それは歴史の働きを通じて発信や継承、または干渉されるものである。本稿で行なった文化性分析では、ある時代と他の時代の間のハイパーリンク[Hyperlink]のように、観察された「現代」の人々と過去から発信継承されてきたと思われる「伝統」との間に文化的連鎖を認めることができた。それらは、ナルキッソスのような文化的自己顕示のようだった。しかしながら、実際の観察で観察された物はそれでけではなかった。すなわち、本稿の文化性分析の結果、以下の事柄が明らかになった:ある伝統を明示的に参照する行動「参照文化性」(referential culturality)は、あたかも存在しているかのような文化的障壁を克服可能である。それは既存の伝統に必ずしも縛られずに、文化折衷的パフォーマンスまたは[生命の変態のような]自己批判や超積極性を象徴する行為のように、異なる伝統に属する様々な文化性を一体的に内蔵することによって成し遂げられてきたようである。そのような概念として「文化性」は、技術文化の生態系[エコロジー]や経済性に関わるインタラクション・デザイン等の領域だけでなく、人類学や動物学等の学問分野を含む様々な領域に応用できるかもしれない。換言すれば、このような文化性の意義を勘案すると、あるアクターとしての「人間」というものは、もはや匿名な存在とは言い難いだろう、むしろ継承者である。この点につき、今後広義のパラダイム設計者や観察者たちは参考にできるだろう。[0]
1. 文化性研究への導入
文化性(culturality)はダイアモンドを水へと変える;文化性は一種の概念であるが、時代を問わず絶対的に明確ではなく、分化の対象となる。文化性類型のモデル(図11参照)に基づき、人はしかしなお、連鎖反応する多層的因果関係ないし、継続的行為の一部として、将来、ある文化性をその分化の後も識別することができるだろう。それは、ある本質や確定された内容ではなく、構造的に弾力的な定義、関係性、として提示される。したがって、合理主義者ないし世俗主義者と自認する者たちは、彼らは物体を理性によって明瞭にで定義でき、それは真理であると考えるようなのであるが、文化性を馬鹿げた考えだと、異端的概念の一種として主張するかもしれない。しかしながら、本稿は合理主義の有用性は認めるが、そのような考えが文字通りの実在に基づくなどという主張については、受容を躊躇する。言うなれば、本稿は不合理性について、無視したりせず、しっかりと向き合って論じる。
1.1. 議論の流れ
本稿はある三部作[システム]の文化性分析を行う。この三部作は、開放世界(以下、オープンワールド,open world)のような、ある種の対話的(以下、インタラクティブ)空間である[つまり、システムの利用方法について、厳格なルールや制約がない空間]。第一章は、本稿の導入を行い、それに続けて地球規模かつ数千年に及ぶ規模、歴史的文脈の文化性分析を行う。そして、文化性研究(culturalities)を行うための基本的な知識を提供する。二章は、本稿の主内容として、三部作について実証的議論を行う。結果、本稿はこれらの領域に関わる超学際的精神を読者に求める。では以下に、文化性研究について議論を始める。
1.2. 魔法にかかっている状態
ある観客または行為者(以下、アクター)なる者とは、配列[数列]の一要素のように独自の属性を持つ、合理的ないし世俗的な存在なのだろうか。どうやらその答えは、必ずしも「そうだ」とは言えないようである。加えて、「宗教」の定義について普遍的合意、つまり人の世俗性を測る閾値、は、これまでのところ存在していないようである。つまり、「宗教」または「科学」とは、実質的に自己特権化のための都合の良い呼び名として機能してきたようである。それを証明するかのように、宗教に関わるニュースや広告やイベントは、事実、イースター、サラー、初詣など、広く行われているし、空港では祈祷室も散見する。人は、ある種の様式、つまり教官のような働きを持つ知識によって動機付けされている行動、を備えているようである。
1.3. 観察された観客
本稿の導入的陳述は、以下の通り:ある観客、ないしアクター、は過去に関連しており、ある文化的母体に属する何らかの、得てして自らの属する、伝統や象徴的内容をしばしば参照、または強く主張、するようである。例えば第二章、本稿の文化性分析、の内容を勘案するなら、そこで観察された観客の行動は、伝統等の[他者]依存的な物から文字どおり独立しているというより、しばしば習慣的だった。つまり、彼らは、他者から切り離されている「ヘレニズム的な神々の闘争による多元主義」のような、本質的に自律的[他者依存しない]実体ではなかった
言い換えれば、コンピュータ生成された配列要素内のランダム数のように、もし仮に観客構成員が個々に特異的存在であるなら、それらの間に交換や干渉が観察されることはないだろう、あるいは個々の要素が無作為ないし個別的な判断を行い、その結果ホワイトノイズのように、全面的に不協和な振る舞いに至るだろう。しかしながら、実際のところ、上述のような「多元主義」から導かれるはずの出来事は、何らかの理由によって、観察されなかった。すなわち、どうやら観客構成員は、本質的に自律的存在ではなかった為、むしろ既存の文化等の他者によって、しばしば象徴的に支配されていたようなのである − 観察された「要素」なる物は、他の形態へと変容、または変異していた。
したがって、本稿は、「等しく理性的な人間」、「知能を持つようにデザインされている機械」等の、人々を還元し均質化するような定義に対し、結果として、異を唱えるに至った。それは、文化性という無縛な、または自己批判的超積極的な、概念と共に、何らかの属性をあらゆる個々の存在へと押し付ける試みについて同意しない。そして、そのような属性とされる物を自明と見なさず、「もしそれが基本的原因に起因していなかったとしたら?」という問題に立ち向かう。本稿の意義の一つのは、ここに垣間見えるかもしれない。もっとも、本稿は、第二章の三部作の文化性分析を目指す論文だが。
このような要素の代わりに、三部作の分析を通じて時折識別されたものは、例えば文化的自己主張が行われるような、変貌する状況である。三部作の観察された観客行動は、なんらかの言語を話す、民族音楽を歌う、因襲的知識を披露するなど、時として伝統に所属していた。それらは、[現代性を]反映しながら行われる土着精神への回帰、または無意識下に抑圧された記憶が予期せず表出する徴候のようだった。いわば、「観察された人々は通常多面的に見えたが、それに留まらず、時々因襲的でもあった」のである。彼らは振る舞いを変えたのである。観客とは、超時間的に確定された存在ではなかったのであり、それは観客の持つ強度のひとつと言えるだろう。
1.4. 文化性研究へ向かって
それゆえ、ある対話(以下、インタラクション)の振る舞いに関わる問題とは:個人行動に影響を及ぼす「伝統」や「文化」、つまり過去、とは何か;どのようにしてそれを識別や分析、または論じたりデザイン、するのか;そもそも本来的に人間や機械とは何か;それらは存在するのか、などの問題である。これは機械類だけでなく人格にも着目する対話性研究である。以下、本稿は暫定的に、ある伝統に関連する行動を、文化性、または文化性を示す行動、と呼ぶ。次節から、文化性分析に関わる基本的知識を読者と共有し始める。そこでは水を、数多の「ダイアモンド」だと、レトリックだが、呼ぶことが求められるかもしれない。
1.5. 文化性分析 I
以下に、文化性分析への導入を論じる。文化性分析は、いくつかのタイプの文化性の把握を試みる。文化性は暫定的に3タイプに類型化されうる:(1)神話などの伝統を参照する「参照文化性」;(2)倫理などの伝統との類似性や親和性、またはその含意、を結果として示す「類似文化性」;(3)継続的進化的で結果として長期に至る、ある行動様式及びその働きを頻繁に示す「習慣文化性」。文化性とは一言で述べると、歴史の働きを通じて波のように発信および継承される、伝統的に象徴的な衝動である。よって、文化性分析とは、これら(3つ)の文化性を指摘するためになされる、ある行動、または行為や存在、の実証的歴史的研究である。それは、ある参考文献へつながるハイパーリンク[hyperlink]のような、現在と過去の間の交差点を探る。
文化性分析における観察の認知的要素に関して、人はこのような内容に気付かねばならないだろう:文化性を提示する行動とは、その因襲性故に、例えば母国語の利用のように、しばしば無視されている物であり、故に継続的な行動様式である。つまり、ある因襲とは、ある文化母体に属する人々にとっては、因襲であり普通なのである。しかしながら、肝要な事は、そのような因襲的事実は、その文化母体に属さない他者にとっても、例えばその文化母体を訪れる外国人にとっても、常にそうであるわけではないということである。彼らは、その文化母体を理解するための手がかり、つまり「文化性」、をほとんど見つけることができず、そしてその結果、ある因習とは実際のところ予期せず個性的に映るのである。それは、強度に、または高度に、象徴的な、ラディカルな、行動としてである10。第二章は、三部作の観客行動の象徴的強度を、このような観点から分析する。
1.6. 象徴の相対性
ある観察された文化性の強度ないし象徴性ないし意義、つまり象徴的強度とは、相対的であるようである。例えば、こうも言える。ある者が何らかの言語、例えば「日本語」、を話す場合、その人の言語的文化性は、地球的国際的規模において、「日本語」の文化性であると指摘できるだろう。しかしながら、もしその人が国内的規模において分析される場合、おそらく誰も日本語であるとは指摘しないだろう、なぜならそれは自明だからである11;その代わりに指摘されうるものとは、むしろ方言であろう。更には、その人が故郷や個人的範囲の規模で分析される場合、再び、誰もそれを取り立てて日本語であると指摘したり、その方言であると指摘したりしないだろう。指摘されるものは、吃音症など、その人物の習慣的な話し方である。もっとも、重要なことは、以下の内容である:このような文化性分析がミクロレベル、例えば細胞や臓器の規模であれば、このような言語的文化性はもはや観察されない − それは消え去る。
換言すれば、上述のように、我々はある文化性分析において、このような事実に気づかざるを得ない:意義とは相対的に生じるのであり、それは上述のように、ある枠組みに基づく、ある枠組みに基づく、ある枠組みに基づく、あるの枠組みに基づく等々と続く中において、「聖なる物」に対する「卑しい物」、「右」に対する「左」などの意義が生じるのである;または「影」を作る「光」や、「主語」を作る「述語」等のように12。そうでないならば、このような事が、証明されなければならない:物体とは観察に関わらず超時間的に有限な存在である、または、根源的原因があった故にその意義は確定されている。しかしながら、本稿の以下に続く、歴史的実証的議論を勘案すると − つまり、これまでのところ無限の宇宙(universe)を勘案すると − そのような「真理」は、却下されなければならないようである。
それゆえに、本稿は導入的に「文化性」の定義は、様々な波の中の一つの波のような、ある無縛性の一部であると述べたい。それは概して、静的な一つの実体というよりむしろ、「通常多面的であるが時に象徴的に見える物」である。このように理解をすることなくして、「文化性」の時間的進化的性格を把握する事は、極めて困難になるだろう。さらに深い議論を具体的に行うために、以下の節において、「文化」や「伝統」についての歴史的議論を続ける。詳細な「文化性」の定義は、1.11節においてなされる。
1.7. 収束分化する物としての文化
文化性についての歴史的議論を本節より始める。文化や伝統の歴史が地球規模で分析される時、どうやらそれらの様式は、進化のように、収束分化し続けてきたようであることが明らかになる13。地球上に存在してきた宗教的伝統とは例えば、様々な形で分化してきた、まるで初めから文化的限界など無かったかのように14。宗教的伝統は、時に自己矛盾的でさえあった。例として、以下を挙げられるだろう。ハシディック系ユダヤ教徒(Hasidic Jews)のように厳格正統でいるのではなく、自らを「進化する宗教的文明」と見なすユダヤ教再建派(Reconstructionist Judaism)、もっとも「正統派の世界には、厖大な多様性がある」のでもあるが15[12];宗教改革を通じて組織の分裂や断絶を続けた新教徒たち(急進的プロテスタント教徒)16;インドにおいて、「七世紀まで広く普及していなかった」、厳格な儀式や苦行的生活を行うカルマ・ヨガやギャーナ・ヨガの代わりに、ヒンドゥー神々への献身を勧めたバクティ・ヨガ17;己の力で悟りを得るのではなく、新教徒(プロテスタンティズム)の救済信仰のように、阿弥陀菩薩による救済を求める浄土(真)宗18;中国後漢(東漢)における王朝信仰として張道陵が、先人や先駆者たちの考えに囚われず墨家の作法に習いながら、設立に関わった道教(Religious Daoism)[l8]19、などが挙げられるだろう。
これらについて考察すると、これらの宗教的分類というのは、地球史を通じて決定的な限界を持たない、つまり実際のところ、本来的に確定していないようである。言わば、これらの伝統とは、凝固してきたのである。このような超越的文化構造を勘案するなら、このように述べると、伝統について、より説得力ある解釈になるかもしれない:伝統とは、檻に入れられてきたというより、それ自体錯覚であり際限無きものだったのである。
美術音楽史について論じると、以下の出来事が、それらは結果として不可避だったのであるが、美術や音楽の基礎的不確定性を示す:アブラハム系宗教の偶像崇拝の禁止に関わる議論20;古代ガンダーラのギリシャ系仏教徒達による、芸術表現を通じる人種的自己主張[21];おそらく唐王朝まで遡るのだが、西洋後期近代においてなぜかしばしばZen美術と呼ばれる、仏教徒や中国の文人達によって発達させられたと言われる墨蹟[22];インド・ペルシャ・ムスリム達の伝統間の文化交換を引き起こすことになった、デリー・スルターン朝やムガル帝国を通じて、またはその後、台頭したヒンドゥースタニ(Hindustani)音楽など[23]21
更に述べると、20世紀までに、仏教の根本分裂などのように、しばしば設立者に当たる者が亡くなった直後に、地球上の個々の文化母体は抜本的な分化を経験してきている。近代においては、各文化母体は、容易な修復が困難で、事実上ほとんど不可逆とも言える、致命的な分化への対処を求められてきたとも言えるだろう。それは、各々の伝統的意義や同一性を維持するために行われたのであり、例えば、18世紀末または19世紀初頭以後の、欧州の自然哲学から自然科学への学術的転向等が、挙げられる22。たとえ文化母体が支配的覇権的のように見えたとしても、疑いなくこう言えるだろう、個々の文化母体の近代性の間の境界とは曖昧であり、決して一つ一つ[固有の近代性として]切り離されていないと。
逆に言えば、地球上の超越的文化構造とは、本来的に人や物によって拘束されていなかったのであり、人々が徐々に自らに都合の良い境界を作り上げてきたのである。一部の人々にとっては、混乱を招く表現かもしれない。しかしながら、我々は今のところ、少なくとも懐疑主義と共に、「物とは明確なはずであり、それは善である(一部の人々の都合や有用性や倫理にとって)」という類の預言的発想を[偽であると]否定できる。このような考えは、「美術」、「音楽」、「文化」、「伝統」、「国民国家」等の概念を聖域化しない。それらは、収束分化してきた人工物の類である。
1.8. 文化の波:ある有限主義
本節では、地球視座から様々な文化性の中の一つ、ある有限主義について論考する。文化とは収束分化する物であるようだが、他方で、ある伝統が分化する時、その様式全体(象徴や存在、それらの意味、雰囲気など)が完全に消え去り、または一切が書き換えられ初期化されてしまうという事は、事実に即すとは言い難い。「文化」とは、植物の育つ土壌のような、それ自身の伝統に統合されつつ変形してきたのである。ナルキッソスのように、伝統とは、幾度となく自己参照を繰り返してきた。それは、楽園のような錯覚へ言及する文化性であり、概して、土着精神へ回帰しながら行われる、当世代的状況への適応、またはその反映である。つまり、相当の分化が生じた後であっても、伝統的振る舞いは観察されうるという事である、例えば、哲学として。
ヘレニズム以来の西洋哲学について述べれば、オントロジーのような、ある種の有限主義へ向かってゆく傾向についての歴史を語ることは困難ではない。それは哲学的振る舞いの「波」であり、常にではないが、しばしば象徴的に現れてきた。この有限主義は、「理性」によって、人間中心主義やロゴス指向行動や合理化などのように23、対象をできる限り詳細に特定する。逆に言えば、三位一体論のように、三者からなる関係については、ある種の無限を暗示する物として、不合理なものと解釈されていたようである24。要は、西洋哲学者や思想家は、時として、社会において支配的に、あたかもそれが楽園へとつながる「唯一」の道のりであるかのように、数学の有理数や特定の類型や二元論のような明確な二項対立への愛着を表してきたのである。この問題ついて加えれば、このように述べた方が公正かもしれない:[神から人間へ与えられた自然の]統治権の行使のように、このような社会における支配的理念は、対立的立場や少数派を制御[合理化]してきたのだと、例えば、彼らを異端と呼びながら。それでは、極めて簡潔だが、以下に欧州有限主義について論じる。
古代ミレトスの、例えば、アナクシマンドロス(anaximander,c.5th century B.C.E.)を勘案すると、彼が無限なる物「アピロン」(apeiron)について議論していたことは事実であると言える。
[9]しかしながら、それは、パルメニデス(c.540−480 B.C.E.)やプラトン(c.4th century B.C.E.)の時代にはすでに、「不合理であり、よって[理性で]理解できない、避けられるべき」物であると理解されるようにになっていたのである。[27]加えて、無限複数という概念 − 潜在的無限(potential infinity)25 − を提案したアリストテレス(c.384−322 B.C.E.)も、πや2の平方根や−5の平方根などの無理数について悩んでいた思想家の一人であり、[無限性ではなく]有限性こそを肯定的状態、あるいは善として、強調していたのだった。[28]このアリストテレスによる発見は、欧州史における歴史的事件の一つだった。というのも、例えば合理的宇宙(rational Universe)のように、以後、そのような有限主義は、継続的基礎的な欧州思想の見本となったのであり、そして、それについて「19世紀まで[...]深刻な異議が唱えられる」ことはなかったのである。[29]
現実的[実際的]無限について議論する場合、アリストテレスの現実的無限に加えて、例えば、ニュッサのグレゴリウス(Gregory of Nyssa,c.335−395 C.E.)等の、キリスト教の伝統における「神」の神性ついて言及できる。ヘレニズム以来の、「善」や「神々」や「唯一の造物主としての神」は、個々に元素のような独自の性質を持ち有限である、というような考えは、神学の分化に伴い新たな神学的洞察を導きながら、徐々に有意ではなくなり衰退していった。このような事例は例えば、イエスは[唯一神の]息子だったのだという、三位一体論の登場を通じて見て取れる。[27]つまり、[唯一かつ三位一体である]神性を弁護するために定義された現実的無限の台頭である。このような神性を理解し体感するために、信者達には、直感的神秘説的な関与が求められた。[27]言い換えれば、結果的に、現実的無限は、二元論的パラダイム − 無限神[infinite God]に対する有限宇宙[finite Universe]26 − における、[人間理性では関与困難な]神の超越性を強固なものとするために、一役買ったのである。しかしながら、その結果として、教会の提示する宇宙論とは異なる考えを主張する者達は、しばしば酷い扱いを受けることになった27。そして数百年後、上述の通り、19世紀、ゲオルグ・カントール(1845−1918)等の一部の数学者達は、[宇宙の]有限性、またはその合理性へ、挑み始めた。カントールはこのように述べた:[被造物である宇宙は]現実的無限の一部だと28。[33,34]
[これを踏まえ]文化性研究に関して考察すると、以下のような思索をしても、必ずしも異常とは言えないだろう:有限宇宙という考えに基づく二元論的パラダイムは批判されることになったが、その長期に渡る伝統を勘案すると、二元論を参照する文化性は、過去から引き継がれてきて彼らの伝統の一部として未だに健在であり、今日においてすら、時折象徴的に提示されているかもしれない。つまり、[善悪等の]倫理観を切り離して、文化性分析を行うとこのように言える:今日、ある行動が有限性への信仰 − 普遍的に有限なる者[the Universally Finite] − を示す時、暗示的であれ明示的であれ、それは全く驚くべき事では無い。そのような行動は、汝と我[被造物と造物主]の関係は明確である「はず」、という聖書に基づく類の発想なのである29。また、今日のグローバル状況を勘案すると、このようにも考えられるだろう、有限主義者の標本は、もはや欧州出身者である必要はないと。それらは、例えば、他の文化母体に居ながらにして、[欧州的]有限主義と共鳴している者達でもいい。
それゆえ、これから述べる内容は、超時間的普遍的ではない − 無縛である − という事が強調されなければならないが、上述の議論を踏まえて、以下の内容について読者の承認を求めたい:このような有限主義は、欧州の伝統として継承されてきた物、その数ある文化性、または土着精神、の中の一つである。さて、このような文脈から導かれる新たな論題の一つは、このような問題だろう:果たしてこのような[欧州的]有限主義は、他の文化母体においても観察されるのか否か;他の文化は、欧州の有限主義と符号するのか、それとも何か他の物なのか、例えば日本において。次節では、極めて簡潔であるが、本件について議論する。
1.9. その他の文化の波
文化性とは、滝のように、何時か何処からか流れ出し、誰もその水流の圧力、伝統的に遍在的な潮流、を止めることができない物であり、ある文化に内在する願望的現実感、纏綿[enmeshment]の一種である。したがって、このようにも言えるだろう。長期に渡って継続してきた文化性とは、何らかの理由によって文化的自然選択[淘汰]を生き延びた、または適応した、物であると。つまり、このように考察できる:地球上の他の伝統は、欧州有限主義とは異なる、あるいは近い、文化性を持っているかもしれない、例えば無限主義として30
「日本」なる物について述べると、もし日本人の誰かがその文化的「起源」、例えば「古事記」や「和」について、言及する時 − それはありがちな事だと思うが − そのような行動は、[日本の]文化性を実演する一例になる。もし日本人が、自己陶酔的煽動家のように、その文化性を盲目的に強調する時、「伝統」なる物への無批判な服従を、結果として証明することになるだろう31。それは[現代を]反映しながら行われる、日本人の心の底流に流れる土着精神への回帰である。つまり、欧州有限主義がそうであるように、ここで我々は、人の文化母体について分析を加えることは、必ずしも困難ではないと、頭に留めておく必要がある。簡潔にまとめると、これら伝統的な「波」は、地球史の少なく無い部分を突き動かしてきたのである。
1.10. 価値を超えて
誤解を招かないように、この節では、文化性分析の基本的パラダイムを述べる。文化性研究とは、例えそれがいかに善、または悪、のように映ったとしても、社会文化的現実感や価値体系や信仰体系とは関係無い。その分析結果は、一部の団体にとって望ましい様式で人物や人々や文化を覆い、非専門人を「教育」する物にはなり得ない。そもそも、ある定義について普遍的合意が形成されているか否かは、不確かなのである(「元素」や「美」など)32。つまり、すでに議論した通り、「定義」なる物は超時間的に特定される物なのだが、実際のところ、それらは歴史を通じて変化してきたようなのである。付随して述べると、文化性分析とは、文化優生学でもなければ、「他者」への寛容等の倫理的探求でもない。
結果として、文化性研究には、人の価値体系など、既存の価値観を人工物として解体するために必要な、粘り強さが求められる。それら[既存の価値]は、文化性研究に従事する者にとっての現実感にはなり得ない。したがって、我々は「文化性」の無縛性へ言及する分析と、[言及せずに]自己特権的に強調された基準の賦課[押し付け]を行う分析、との間の緊張[対立]について念頭に置きながら、文化性分析を行わなければならない。
1.11. 文化性の定義
これらの考察に基づいて、「文化性」は次の段落で定義される。もっとも、「定義」なる物は、「それ自体では何も築き上げない」故に、悪名高き物であるようだが。[38]また、それら[定義なる物]は、しばしば人の営みについての激しい論争や対立を招いてきた。例えば、[一神教的]神性の定義についてなど。したがって、我々は、この「文化性」の定義は、導入的または暫定的な物であり、不可避的に、未来の世代による継続的改訂を必要とするという事を、念頭に置かなければならない。この定義は、文化性分析のための、平易かつ効果的な議論に資することを目的とする、ある相対的な有用性のために提示される、定義である。
では、文化性とは:「(1)多面的であり、[月の満ち欠けのように]時として象徴的に映る物」である。もしさらなる詳細が求められるなら、上述の定義の終わりに、以下を加える:「(2)ある者が、文化分析的枠組を作りながら、認知し解釈し続ける限り、(3)観察されている物と発信されてきた物との間の連鎖を探りながら」33。より具体的には、文化性とは、不確かながら、人々の伝統的振る舞いから把握される。つまり、ある「文化性」とは、動機、想定、構想、エートス、ミーム、マインドセット、無意識、習慣、好み、愛着、慣習、雰囲気などである。言い換えると、文化性とは、時間軸上の、または歴史の働きとしての、行動を通じて、発信および継承されてきた物である。「行動」とは、したがって、ある物体というより、重ね合わせの原理によって干渉したり回折したりする、「波」のように理解されうる。そして「文化性」とは、様々な波の中の、ある過ぎ去った波に類似するように見える波の一つである。
文化性とは、[本稿の分析に基づくと]これまでのところ三種に分類され得るようである:「参照文化性」、「類似文化性」、「習慣文化性」(1.5節、図11参照)。これらの類型の特徴は、概して、以下の通り。「類似」および「習慣文化性」は、非意図的な伝統への参照である一方、「参照文化性」は意図的である。「習慣文化性」は、それと共に暮らす人々の日常生活に浸透していて、極めて頻繁に忘却されているか、「自明の理」として認識されている一方、「他の二つの文化性」は時折参照される。参照文化性と類似文化性の相違は、ある者が、コインの裏表のように、意図的か否かである。したがって、習慣文化性は、その文化母体に属する者にとっては、比較的に象徴性が低いと言える一方、類似および参照文化性は、そこに暮らす人々にとっても象徴性が高い。もっとも、重要なのは、これら[三種]の文化性に馴染みがない、またはそれらの理解の参考になる伝統物をほとんど持たない人々や外国人にとっては − つまり、ある文化についての彼らの認知的閾値が低い時 − 全てのタイプの文化性は、文化的な非対称性ゆえに、しばしば強度に、または高度に、象徴的に映る(象徴的強度の画像表現については、図15参照)34
具体的には、人が自分の文化母体について、社会人類学的視点を獲得しているのならば、習慣文化性に当たるものは既に「そこ」にある。それは、外見、習慣、ファッション、母国語等のスタイルや形態、つまり[ある者を]取り囲んでいる物として、遍在している。類似および参照文化性なるものは、しばしば人々の琴線に触れながら、「聖なる物」や「卑しい物」などとして、彼らの象徴に伴って観察される。これら類似および参照文化性は、社会的トーテム、[社会の]上部構造、支配的覇権的な行動等として35、ある文化母体における人々の理念を映し出す。類似および参照文化性は、その(非)特権的地位のために、たとえ自己正当化のための絶対的な根拠を欠いていたり、非論理的だったとしても、幅広い聴衆によって受け入れられがちである。むしろ実際のところ、伝統的に「然るべき」行動、または、待ち望んでいた「波」の到来として、歓迎されたりするのである。整理すると、類似および参照文化性は、暗示的、または明示的、または複合的に、とりわけ、これらの象徴やその含意を通じて表現される:美術作品、儀式、紋章、倫理、葬式、祝日、理想、文学、声明、音楽、政策、仮説、陳述、教科書などのデザインや構成。
1.12. 文化性分析 II
このような文脈において、この節では、追加情報と共に、文化性分析をまとめ上げる。文化性分析の究極的関心は、人間がいかに野性的であり、故に興味深くあるか、を理解することにあるかもしれない。それは、結果として生じる人々の受難や苦悩を、例外なく抱擁することである。説得力のある分析へ向かうための数ある方法の中の一つは、文化の無縛性を念頭に置きながら、地球規模的に公正かつ妥当な、観察される現在と発信されてきた過去の間の、連鎖関係を調査し指摘することである。それは、ある人の文化的な自己参照的行動など、文化的ハイパーリンクを見つける試みのようなものである。もちろん肝要なことは、著者自身認めることであるが、他者のそれを批判する事はそうでもないようだが、人が自らの現実感を築き上げる伝統への大胆な批判を試みる事は、必ずしも容易でないということである。
文化性分析は、エスノグラフィー[民族誌]に基づく。その過程で、その目的は単に物事を定義することには、なり得ない。その目的は、注意深く意味の網目を統合的に織り合わせながら − それはしばしば理解し損なわれ、暗示的なのだが − 象徴的行動や存在や雰囲気やそれらの含意を関連づけることである36。定義なるものは、実際のところ無縛なのであるが。
これを踏まえ、文化性分析の三局面を述べる。それは、[具体的には]第二章において、美術や音楽に関わる象徴的行動の理解を目指した。「(1)認知:分析すべき事柄を認知理解し、記録する;(2)理解:象徴的行動およびそれらの関係を理解し解釈する;(3)分析:ある文化母体内外の伝統を探りながら、観察理解された出来事の含意や文化的ハイパーリンクを分析し、指摘する」。(1−2)の過程は観察に基づき、(3)は観察された事を伝統へ関連付ける歴史的分析である。
従って、第三局面に至る前には、ある条件ある。それは、自己が属し、また発信されてきた伝統から継承する、既存の「現実感」を克服するために、分析者自身が、歴史上の超越的文化構造、または文化的障壁の一般的な曖昧さ − 文化の無縛性 − を把握していなければならないという事である。つまり、究極的には、分析者は、歴史的に構築されてきた信仰体系にとっての「風狂」または「異端」になることが求められる。[逆に言えば]分析者は、既存の伝統に対して、恐れを知らぬ批判を展開する故に(超文化的行動)、議論の対象となっている伝統に属する非専門人達による激しい批判や、彼らからの好まれざる反応を、目にすることになるかもしれない。つまり、このような想定をしても異常ではない:結果として、分析者自身が「それにもかかわらず」と心の内に誓うことも、あり得るかもしれない。
それ故に、文化性分析の意義が収束する時とは、人々が自然に全ての既存の文化性を抱擁する時、または平和的な作法でそれらを吹き消す時、またはそれら[観察された文化性]が興味深い、雨の後の虹のような、錯覚であるということを当然のごとく理解する時である。「文化」がそうであるように、本来「文化性」とは無縛なのである。文化性研究に従事する者は、文化性が実在物として扱われる限り、それから一定の距離を置かなければならない。
1.13. 自己秘匿的観察:但し書き
エスノグラフィー過程について追記するが、他の観察行為がそうであるように、完全に一致する状況を反復したり、観察したりする事は、実際のところ不可能である37。このため、自然な観客の反応を観察する為に、文化性分析は自己秘匿的である必要がある。そこでは、観察者は、監視カメラのように、自己を離れた距離に置き、できるだけ人々に何も説明しないことが求められる。その結果生じる空白は、観客自身の自発的関与によって、満たされることになるだろう。
1.14. 準備的結論
本章は、歴史的議論 − マクロレベルの文化性研究 − を行いつつ、「文化性」の定義を提示した。次章では、三部作において観察された文化性について議論を行う。ミクロレベルの文化性研究である。
2. 分析された文化性
本章は、文化性の個別的解釈のためのケース・スタディとして、三部作(『Reverence In Ravine』、『Transparent Sculpture』、『Data Auditorio』の3システム)の文化性分析を行う。三部作を通じる研究の関心は、あるインタラクションに属する人的強度である(1.3を参照)。デザインの進化を通じて、この三部作は超積極的[に観客が参加し得る]空間になった。そこでは、関連する「存在」は絡み合う。そして、その体験は実質的に、オープンワールドのそれに近い。
文化性分析のための枠組み、手法等は、以下の通り。分析は、個人的な範囲かつ数百ミリセカンド(ms)規模である。これは、著者による私秘的分析ではなく、少なくとも超民族的に説得力ある分析を行うために、『Data Auditorio』では二人から助言をもらった。加えて、ほぼ全ての分析は、一次資料(生録音された音声、写真、映像記録)に基づいている。何らかのタイプの文化性をほぼ常に指摘できた(1.11参照)。『Data Auditorio』では、特定の指示(例えば、[歌われる]歌について)を、与えていない;議論されている全ての行動は、[観客達の]自発的反応である。三部作[人工物システム]のデザイン構造は、注意深く構成されており、再現性を持つ。観察された行動の多角化は、おそらく、三部作のためにデザインされたアフォーダンス[設計]に由来すると思われる(図12参照)。技術的詳細については、[41,42,45]を参照38
次節から、三部作の文化性分析を始める。そこでは、何らかの文化性タイプを指摘するために必要十分な記述を提示することを目指す;では、「我々のパラダイムを定義なる物達へ単純化」してゆく。
1. Reverence In Ravine(2010−11)
本節は、三部作の第一作、『Reverence In Ravine』、においてエスノグラフィーを通じて観察された文化性について、論考する。2010年に作られ、日本国の岐阜にて2011年1月に展示された(図13参照)。サイズはおよそ、7、7、4メートル(奥行、幅、高さ)だった。
当システムは、透明の彫刻のような、不可視構造を内包するインスタレーション[空間に設置される人工物システム]であり、超指向性サウンド等の展示物[ディスプレイ]の指向性から構成されていた。「透明な彫刻」とは、ユーザー・エクスペリエンスの観点において、究極的な技術の構築を目指すコンセプトであり、その物理的不在性ゆえに際立った障害物を持たない。そして、それを通じて、明瞭に意図された特定の意義を生じさせることを目指す。空間の内部には、離散的に配置されるディスプレイによって、それらの焦点[スイートスポット]は一つ一つ個別的に配置されていた。換言すると、特異的な一つの焦点[通常、空間内に一つとされるスイートスポット]というものは無かった。
観客は、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、この「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。観客は、その一見何もない空間内において、一定の自由を持ち、ディスプレイの複数の焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めることができた。
観察を通じて以下の事柄が認められた:(1)視認、(2)聴取、(3)歩行、(4)その他[観客の外見など](図12参照)。文化的連鎖、その伝導性、は明瞭に現れてはいなかったが、観客による関与は受動的ではなかった。彼らは、空間内の「透明な彫刻」の構造や交差点を探りながら、「積極的に鑑賞」していた。[41]加えて、観客活動は、文字どおりランダムでも画一的でもなかった。ディスプレイの構造に沿って歩く者や自発的[直感的]に夏のような雰囲気を楽しむ者もいた。更には、恐れているような表情をして、その不可視空間へ入ろうとしない者も居た。したがって、彼らの活動は、[一見]多面的でありつつも、時として象徴的に様々な関与形態を示していた。
その結果として、『Ravine』は、以下のヒントを著者へ授けるに至った:もし新たなインスタレーションを周到に準備したら、例えば個性的なパフォーマーとして、観客は各々の「行動様式」を有意に表現するかもしれない。
2. Transparent Sculpture(2012)
本節は、2012年8月にオーストリア、リンツのブルックナーハウスで展示された、三部作の第二作、『Transparent Sculpture』について論考する。そのサイズは、およそ6、6、3メートルだった(図13参照)。[42]
本システムは、『Reverence In Ravine』のように、不可視構造(「透明な彫刻」)を内包するシステムであり、超指向性サウンド等のディスプレイの指向性から構成されていた。しかしながら、本作は主に超指向性サウンドを主な媒体として利用し、あらかじめ録音されたリニアな様々な都市の環境音源と、音声フィードバック(フィードフォーワッド)・ループを流していた39。それは、「[超指向性]サウンドの鏡」のような環境だった。その内部には、離散的超指向性サウンドによって、音響構造を体験するための焦点が、一つ一つ個別的に配置されていた。
観客は、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、この「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。さらに、ある意味ノイズ生成者または演奏者として、様々なノイズを発して、音声フィードバック・ループと通信[対話]することができた。観客は、その一見何もない空間内において、一定の自由を持ち、ディスプレイの複数の焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めることができた。
観察を通じて以下の事柄が認められた:(1)発話(描写)、(2)発声(叫び)、(3)舞踊、(4)遊び場に居るかのように遊ぶ、(5)走る、(6)『Ravine』で観察された事(図12、図14参照)。
文化性研究に関して述べると、身体的活動に加えて(1)発話(描写)における、観客による言語的形而上学的な活動が、様々な象徴的行動の中でも有意な内容になった。それらは、明らかに、観客自身の個々の言語的背景を参照しながら、特定の言葉を用いていた。[この時点で、すでに何らかの文化性が継承されているようであるが、三類型に従って、より具体的に指摘すると]もしそれが、習慣的に利用されない、ある程度の困難を伴う外国語の利用であれば、それは「参照文化性」と指摘できる。もし習慣的に、とりわけ困難を伴わずに利用される母国語であれば、「習慣文化性」だろう。[つまり]人々は、参照か習慣文化性どちらかの、言語的文化性を提示していた40
(2)発声(叫び)について述べると、類似的文化性に分類されるであろう興味深い含意が観察された。つまり、非日本人は必ずしもそうではなく、時には叫び声を上げる者さえ居たのだが、それに対して日本人は、しばしばなんらかの理由により静寂だったのである。日本人は指示に従いがちという過去の観察を勘案すると、観察された観客は、過去の日本的文化性に文化的に類似する行動をしていたと言える41。[43]加えて、(3)舞踊は、おそらく類似文化性に当たる、巧妙な文化性を提示していた。そこでは、観客構成員は、お互いに腕を組みながら踊っていた。他の舞踊流派、例えば阿波踊りやブレイクダンスを勘案すると、それは明らかに普遍的様式ではなかった。それはおそらく、オーストリア(ドイツ系)民族舞踊の様式の一つだった。また、空のステージ上で、遊び場で遊ぶようにしている人々もいた。彼らは、実際のところ、全て幼児達であり、成人は居なかった。幼児が効率的に歩くことができないために、しばしば横臥しているという習慣的行動を勘案すると、観察された行動は、習慣文化性と指摘てきた42
『Transparent Sculpture』において、習慣だけでなく、類似や参照に当たる文化性を提示する人々が現れ始めた。もっとも、参照文化性は、非母国語の様々な言語の利用に限られていた、または、その利用を通じて過去に関連していた。その結果、こう言えるようだった:もし作品[システム]構造を通じて、言語的行動を制御または演出できるならば、その他の参照文化性も掘り起され、把握され得る;そして、それは、文化非対称性に基づいて、極めて象徴的な行動として解釈され得る(象徴性の強度については、1.11第三段落などを参照)。具体的には、新たな作品は、例えば歌唱行為を通じて、多様な参照文化性を提示し得るように思われた。
それため、三部作の最終作に向かう方向性として、[文化的に]強度を持つ行動になり得る多種多様な「参照文化性」 − 「強度あるインタラクション」 − の調査が、その最たる目的になった。[45]
3. Data Auditorio(2013)
本節は、本稿の三部作の最終作、2013年初頭に作られ2014年9月にオーストリアのリンツ及びギリシャのアテネで展示された『Data Auditorio』において観察された文化性について分析する。それは、ある意味、各々の観客構成員による自己参照的カラオケ・パフォーマンス・ステージであり、それは彼らの、通常多面的であるが、時として垣間見えるであろう象徴性、つまり文化的非対称性、を理解するための空間だった。[45]そのサイズは、およそ、5、5、3メートルだった。
詳細を述べると、『Data Auditorio』は、『Reverence In Ravine』や『Transparent Sculpture』のように、「透明な彫刻」を内包するインスタレーションだった。しかしながら、個々人の象徴的行動を反映するために、それは一つの超指向性サウンドのフィードバック・ループのみを利用した。またそれは、周囲の物(例えば観客)と関わり合う、生態系[エコロジー]ないし連鎖反応する多層的因果関係から作り出される音楽の一種でもあった(生態系的関係についての画像表現は、図15参照)43。つまり、『Auditorio』は、高度に統合された生態系の螺旋構造であり、周囲の様々な物、またはそれらの関係、の間に生じながら、それらを巻き込みつつ、絶え間なく循環する、超指向性サウンドのフィードバック・システムだった。よって、『Auditorio』は、「何らかの周囲の物」と絡み合う連続体の一種であり、しばしば関わり合っている「観客たちの活動」に応じて、超積極的な状態になり得た。その内部には、一つ超指向性サウンド・フィードバック・ループを利用していたため、特定の一点の焦点のみが配置されていた。したがって、『Auditorio』は、[既存システムに比べて]小型にデザインされており、個々の観客によるソロ・パフォーマンスを行うための空間だったが、同時に、拡張バージョンとして、『Auditorio』を幾つも配置して超指向性サウンドの森のような環境を作ったり、一般的な2チャンネルスピーカを利用するコンサートを行うことも可能だった。
観客は、その空間内で、自己参照カラオケを歌うように、個性的な歌手になることができた。また、何らかのノイズを発することによって、フィードバック・ループと通信[対話]することもできた。その結果、ある意味ノイズ生成者ないし演奏者になることができた。さらに[既存システムと同様に]、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。観客は、一定の自由を持ち、ディスプレイの焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めるだけでなく、どのような歌を歌うかを決めることができた。
観察において以下が観察された:(1)ユニゾンやコーラスでの歌唱、(2)ソロ・パフォーマンスでの歌唱、(3)ノイズを発したり物を叩いたりすることによる演奏、(4)ピアノなどの楽器の演奏、(5)抑揚のある発話や描写、(6)抑揚のある発声や叫び、(7)舞踊や遊び場としての利用を除く『Sculpture』や『Ravine』で観察された内容(図12および図14参照)。
文化性研究の観点から述べると、観客による言語的形而上学的活動は、既存の2作品に比べると、より有意な行動となったが、身体的活動は『Sculpture』と比べると[相対的に]静的だった。つまり、舞踊や遊び場としての利用は『Auditorio』において全く観察されなかった反面、言語活動はより具体的かつ多様な歌唱パフォーマンスへと拡張された。例えば、上述の象徴的行動の(1−2)であり、それは参照文化性を提示するものだった。例えば、以下の民族音楽が参照され、歌われた:(古来のアラブ、またはトルコ、またはギリシャの)賛美歌と思われる歌、エジプト人作曲家Sheik Sayed
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Chestnut Tree』(1939)から編曲された)『大きな栗の木の下で』、Jay Livingstonらによる『Que Sera,Sera(Whatever Will Be,Will Be)』(1956)、など。
(3)ノイズを発したり物を叩いたりすることによる演奏について述べると、観客の一部は、鍵を振ったりプラスチック袋を絞ったりして、音を鳴らすことによって、John Cage(1912−1992)によって提案された環境音活動それ自体を音楽とする『Silence』やLuigi Russolo(1885−1947)によって提案された『Art of Noise』等の概念を連想させる、歴史上の前衛芸術家のようなパフォーマンスを行う者がいた44。この行動は、[意図的な参照というより]結果的な類似文化性かもしれないが、いずれにしろ重要なことは、参照文化性であれ類似であれ、過去に習うような象徴的行動[文化性]を彼らが実演したということである45。逆に言えば、それは「習慣的」行動とは言えないようだった46
(5)抑揚のある発話や描写、(6)抑揚のある発声や叫びについて論じると、観客は個性的な歌手として、抑揚を伴いながら、異なる言語を「習慣」ないし「参照文化性」として披露していた。加えて、発話や発声によって示される、彼らのアクセントや声色の違いも明瞭に聴取可能だった。それらは、もちろん、歌い手によって異なっていた47
したがって、『Data Auditorio』では、参照文化性を、様々な表現の中でも特に、異なる民族音楽として確認できたと言える。文化的自己主張のように実演された、これら参照文化性は、それ自体十分に魅力的で象徴的な物だった。もっとも、文化性分析の観点から言えば、このように言えるだろう:観察されたパフォーマンスの中でも特筆すべき瞬間は、参照文化性が必ずしも、国民国家等の、既存の社会文化的障壁の制約を受けていない時だった。具体的には、『大きな栗の木の下で』を自発的に歌った者は、日本国民でもなければ、日本育ちでもなかった。同様に、『El Helwa Di』を歌った者はエジプト人ではなかった。『Que Sera,Sera』を歌った者はアメリカ人ではなかった。したがって、以下の考察を導くことができる:「参照文化性」は既存の[あたかも存在すると思われている]文化母体を超越しており、故に無縛だった。さて、ここで明らかになった事とは、このような内容である:議論されてきた「文化」や「伝統」、それらの文化的無縛性、と同様に、既存の文化的障壁を克服することは可能であり、その結果、新たな統合的ないし超積極的な種の物 − 超文化性 − を提示できるということである。
結果として、三部作の最終作は、「文化性」の無縛性を実証的に解明する試みになった。それは、例えば、個々の歌手が自分にとっての洋楽を参照しながら、統合的に多様な「参照文化性」を提示することによって、成し遂げられていた。
3. 結論
本稿は、マクロおよびミクロ規模の文化性分析について議論した。マクロな議論は、一章の地球史規模の議論であり、ミクロな議論は、二章の個人的な観察規模の議論だった。それらは、パラドックスのようだが、相互に類似する − 文化性は無縛である − という準備的結論を導くことによって、あたかも二章を通じて、結果として、[文化性は無縛であるという]「類似文化性」の一例を示しているようだった。
第一章は、文化の無縛性について論じた。それは、[月の満ち欠けや]海のように、多面的であり、時として象徴的に映る物であり、これに従って「文化性」が定義された。第二章は、三部作を通じて実際に観察された文化性について論じた。文化性分析の観点において、そこで観察された特筆すべきパフォーマンスは、「参照文化性」が民族音楽の歌唱を通じて実演された時だった。そして、その一部は、必ずしも個々の歌手にとっての伝統的な歌ではなかった。つまり、洋楽だった。結果として、以下の内容が明らかになった:参照文化性は、既存の文化障壁を越えて無縛になりうる。行われた全ての観察を勘案して換言すると、「類似」および「習慣文化性」は、非意図的で自発的な伝統の参照を行う故に、既存の伝統によって、強固かつ多方面に渡り、制約を受けていると言えるかもしれない。しかしながら、肝要なことは、既存の[有限的に映る]文化障壁を、参照を通じて克服できるということが今や明らかである事を、我々は認めなければならないということである48
それゆえ、どうやら、このように結論付けられるようである:多様な − 自己および他者の行動を映画監督のように方向付ける[演出する] − 文化性を分析し、あたかも異なっているように映る、いくつかの分析された文化性を新たな形態へと融合することによって、過去の実践者達がそうして来たように、文化の無縛性を我々は今日の実践者として「再び」、そして恐らく未来においても、明確に示すことができる。かくして、超時間的な[普遍的]文化性は確認され得ないだろう。
本稿の研究の潜在的な貢献については以下のように言える。未来の世代は、自身の文化性について議論できる。自己批判的超積極的な概念として、「文化性」は無限に「善」、「中立」、「悪」、「政治的正しさ」等の定義を変える。この概念は、インタラクション・デザイン等、行動観察を伴うあらゆる研究へ応用されうる。そこでは、人間とはもはや匿名ではなく、ある種の継承者であり放棄人である。大規模な領域では、潜在的に、社会政治デザインにも応用されうる。これらの貢献に際し、文化性は、全ての[なんらかの属性を押し付けられかねない]「人々や存在」にとっての、朽ちることなき盾となるだろう49
最後に、「文化性」という概念の無縛性について再び確認する。それは、本質的に自律的実体ではなく、基本的に波のように多面的であり、[月の満ち欠けや]稲妻が観察されるように、時として象徴的に映るのである。また、それは既存の価値システムとは関係がない。その根底的な非特異的性格、つまり無縛性ゆえに、もし文化性概念が思索的に聞こえたとしても、著者自身は観察に基づいて論じたのであり、そのような議論はしていない。また、そのような誤解が生じないことを望む50
ところで、『Data Auditorio』は、観察条件によっても変態するということにも気づくことができた。記録された歌手の歌声は、他の人と一緒にいる時の方が、一人で歌っている時よりも具体的、つまり高度に象徴的だった。つまり、周囲の環境やそこで生じる雰囲気が、歌い手の行動に影響を及ぼしているようだった。歌手が、他の人と一緒に演奏していると、ある種の熱狂のように、より高い確からしさで、強度ある象徴行動に至ると言えるかもしれない。したがって、[変態や進化のように]高度に象徴的な強度 − 超文化性 − の提示をより確実にするために、アンサンブルのように、事前に「他者」の存在を準備しておくことは、[本研究から導かれる]将来的課題になる(図15参照)。
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[47]J.Cage and D.Charles,“Afterword to the French Edi−tion,”in For the Birds:John Cage in Conversation with Daniel Charles,Marion Boyars Publishers Ltd,2000.
潜在的な「文化性」実演を、伝統的様式及び伝統横断的様式も含め、予見および想定し、水面や鏡台のように、人や物やそれらの行動の変化、および文化性の実演を、反映し、
より互恵的一体的、そして実際の経験や観察や記述や記録に基づいて設計される、「人−人工物」間の円滑な関係性やシステムの設計と実施を目的とする。
本発明の実演を通じて観察された「文化性」の意義を勘案すると、あるアクターとしての「人間」というものは、もはや匿名な存在とは言い難い。今後は、人々が実演し得る、文化性の実演を想定する装置を設計できる。本発明に基づいて、以下を請求する(図15参照)。
本発明は、
(0−0)文化性の導入
波のように、人間行動を方針付ける因子である「文化性」を導入ないし組込む、連鎖的多層的因果関係、または、生態系的関係性であり、
(0−1)文化性の発動や実演
換言すると、人間行動を通じる、「文化性」の発動や実演、および、その発動や実演の観察者による鑑賞を可能にする、対話的機構、または、循環装置であり、
(0−2)自己参照性
水面や鏡のように、本発明の一体的関係へ干渉する人や物による行動やその存在を反映する、自己参照性を有し、
(1)変身や変化
鏡台のように、人間行動の変身や変化や変貌を、それらに必要とされる努力や工夫や奮闘も含めて、実演でき、
(2)ステージ
かかる変身や変化や変貌を実演するための、ステージを有し、
(3)文化性実演のための空間
また、かかるステージは、人の変身活動や変化活動を阻害しないために、有意かつ十分な空白の空間を内蔵し、
(4)文化性分析
また、かかるステージは、人の変身活動や変化活動が実演する文化性を指摘するために必要十分な、空白の空間を内蔵し、
(5)文化性実演の誘引
また、かかるステージは、特定の変身や変化の実演を通じて、既存の文化性を参照する行動を、明示的または暗示的に誘引する、アフォーダンスやデザインを内蔵し、
(6)マイク入力
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、音響入力装置である、マイクを内蔵し、
(7)スピーカ出力
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、音響出力装置である、超指向性スピーカまたは通常スピーカを内蔵し、
(8)コンピュータ
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、コンピュータを内蔵し、
(9)ソフトウエア
かかるコンピュータのソフトウェアは、音楽をリアルタイムに構成するように、音響入力信号の時間構造を再構成したり、その可聴性を高めたり、その出力レベルの制御をしたりする、処理を行っており、
(10)彫刻的音響構造
また、かかるステージは、超指向性スピーカを利用する場合、変身や変化を阻害しないように、超指向性スピーカから発せられる超指向性音響によって建築される、不可視の、「透明な彫刻」のような、実質的音響構造を内蔵し、
(11)放射的音響
また、かかるステージは、通常スピーカを利用する場合、変身や変化を阻害しないように、スピーカから発せられる放射的音響出力を内蔵し、
(12)無限回帰と循環
そして、かかるステージへ、かかる音響が出力される結果、上述(1)の過程へ回帰し、その後、再び(1−12)を含む過程を、無限に反復することによって、「文化性」を含む、連鎖的多層的因果関係または生態系的関係性またはフィードバック・ループまたは「人−人工物」間のインタラクティブ・システムを、確立する。
(請求項1)
本発明は、
人や物による行動の変身や変化や変貌やそれらを通じる「文化性」の発動を、必要とされる努力や工夫や奮闘も含めて、実演したり、同時に、この実演の観察者による鑑賞や関与や分析を可能にしたりするための、ステージ(空間)を有し又は利用し、
また、かかるステージは、人の変身活動や変化活動を阻害しないために、有意かつ必要十分な、空白の空間を備え、
また、かかるステージは、特定の変身や変化の実演を通じて、既存の伝統や様式を参照する行動を、明示的または暗示的に、誘引する設計や機能を備え、
また、かかるステージは、かかる人の変身活動や変化活動が実演し得る「文化性」を、分析および指摘するために必要十分な、空白の空間を備え、
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、音響入力装置である、マイクを備え、
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、コンピュータを備え、
かかるコンピュータのソフトウェアは、音楽をリアルタイムに構成するように、音響入力信号の時間構造を再構成したり、その可聴性を高めたり、その振幅レベルの制御をしたりする、フィードバック信号処理を行っており、
また、かかるステージは、文化性実演を阻害しないように、音響出力装置である、超指向性スピーカまたは通常スピーカを備え、
また、かかるステージは、超指向性スピーカを利用する場合、「文化性」実演を阻害しないように、超指向性スピーカから発せられる超指向性音響によって建築される、不可視の、透明な彫刻のような、実質的音響構造を備え、
また、かかるステージは、通常スピーカを利用する場合、「文化性」実演を阻害しないように、スピーカから発せられる放射的音響出力を備え、
そして、ステージ内で、「マイク−スピーカ」間の音響信号の入出力を潜在的に無限に反復し、かつ、人や物による行動や「文化性」の実演を誘引し、
その結果、サイバネティック・システムや観客参加型パフォーマンスやインタラクティブ・アートのように、統合的一体的に、人工物を制御し、かつ、人の行動を方向付けることによって、連鎖的多層的因果関係または生態系的関係(エコロジー)または対話性(「人−人工物」間のインタラクション)または循環性(フィードバック・ループ)、を確立するシステム又は機構又は装置。
(請求項2)
水面や鏡台のように、本発明の一体的関係へ干渉する、人や物による行動やその存在を反映する、自己参照性を有し、そして、ある過去の行動を参照して、ある現在から未来へと向かう行動を修正でき、そして、人や物による行動の変身や変化や変貌を、必要とされる努力や工夫や奮闘や文化性の実演も含めて、実演でき、その結果、潜在的に無限に、自己参照し続けることができる請求項1に記載の連鎖的多層的因果関係または生態系的関係(エコロジー)または対話性(「人−人工物」間のインタラクション)または循環性(フィードバック・ループ)、を確立するシステム又は機構又は装置。
請求項3)
音響信号発信器(サイン波、矩形波など)のように、ソフトウェア処理を通じて、入力信号の振幅レベルおよび出力時間軸を、リアルタイムに再構成することによって、ステージ設計やフィードバック信号や実演される人や物による行動(例えば、意外な行動や「文化性」の実演)等に基づく、生態系型の音響(発信器)を構成または合成できる請求項1又は2に記載の、連鎖的多層的因果関係または生態系的関係(エコロジー)または対話性(「人−人工物」間のインタラクション)または循環性(フィードバック・ループ)、を確立するシステム又は機構又は装置。
(請求項4)
通常スピーカや「人−人工物」インタラクションや生態系型音響合成を利用して、サイバネティック・システムや観客参加型パフォーマンスやインタラクティブ・アートのような、コンサートを行ったり、音楽アトラクションや芸術作品やエンタテインメント作品を制作できる請求項1から3のいずれかに記載の連鎖的多層的因果関係または生態系的関係(エコロジー)または対話性(「人−人工物」間のインタラクション)または循環性(フィードバック・ループ)、を確立するシステム又は機構又は装置。
潜在的な「文化性」実演を、伝統的様式及び伝統横断的様式も含め、予見および想定し、水面や鏡台のように、人や物やそれらの行動の変化、および文化性の実演を、反映し、
より互恵的一体的、そして実際の経験や観察や記述や記録に基づいて設計される、「人−人工物」間の円滑な関係性やシステムの設計と実施を可能にする。
不可視の多元的映像音響構造の格子状のデザイン 実際に構築された、多元的映像音響構造環境(システムを利用する時は明かりは消される)。 実際に構築された、不可視の多元的映像音響構造の格子状のデザイン。理論上、構造の規模(映像音響ディスプレイの数)は限定されていない 実際に構築された、人工物システムのデザイン。全てLANを通じて同期されている。映像音響コンテンツは、リアルタイム並列処理されている。 観客行動の一例。個人的観察規模、かつ、数ミリセカンドの写真記録。ダンスを行う人々が観察される。明らかに、阿波踊りやブレイクダンスとは異なる様式を提示している。(おそらく、オーストリアないしドイツ系の)「フォークダンス」の一様式、つまり文化性、である。その他にも、単に「歩く」だけに留まらず、「叫ぶ」行動など、様々な行動が観察された。 網目状の超指向性音響システム。録音音源やリアルタイムのフィードバック信号がからのステージ上で交わる。観客はそこで任意の行動を提示し、その音響へ干渉、またはそれと一体化できる。右上に記載のアイコンは、上から、「焦点(スイートスポット)、超指向性スピーカ、ステージ、超指向性音響」。 音響生態系のような、一体的インタラクション・デザイン(Hは、人間系。Mは人工物系)。そこでは様々な象徴的行動が提示され得る。 インスタレーションの外見。対話的音楽(再構成されたフィードバック信号)が、超指向性スピーカからマイクロフォン下に、シャワーのように降り注ぐ。観客はそこで任意の行動を提示し、その音響へ干渉、またはそれと一体化できる。 インスタレーションの三面図。1マス(約)1メートル。右上に記載のアイコンは、上から、「マイク、超指向性スピーカ、通常のスピーカ、超指向性音響、ホワイトノイズ、人々、鏡」。 複数のシステムを統合的に利用する拡張バージョン。右上に記載のアイコンは、上から、「サイズ、マイク、超指向性スピーカ、超指向性音響、人々、(MIDIプレイヤー)ピアノ」。一般的な2チャンネル・スピーカ環境では、コンサートも可能。 文化性の類型:参照、類似、習慣 観察された象徴的行動。観察された象徴的行動。なんらかのタイプの文化性を示していた物は*印付き。 三部作の「透明な彫刻」、超指向性サウンドや光のディスプレイ構造。三部作の「透明な彫刻」、超指向性サウンドや光のディスプレイ構造。上から『Reverence In Ravine』(空間内を歩く観客)、『Transparent Sculpture』(空間を眺める観客)、『Data Auditorio』(歌い手と観察者としての観客)のイラストレーションと写真記録。 『Data Auditorio』(上段)と『Transparent Sculpture』(下段)における行動の標本。(A、B)民族音楽の歌唱、(C、D)鍵等を利用してノイズを生成、(E)発話と描写、(F)叫び、(G)舞踊、(H)歩き回る。上段左右は、エコロジカル(生態系的)関係。中段は、高度な象徴的行動。下段は、低度な象徴的行動。記号:a(audience),c(culturality),r(relationship),s(symbolicity),θ(threshold),t(time),x(unspecified). 文化性の簡潔な理念モデル。上段左右は、エコロジカル(生態系的)関係。中段は、高度な象徴的行動。下段は、低度な象徴的行動。記号:a(audience),c(culturality),r(relationship),s(symbolicity),θ(threshold),t(time),x(unspecified).
本節は、三部作の第一作、『Reverence In Ravine』、においてエスノグラフィーを通じて観察された文化性について、論考する。2010年に作られ、日本国の岐阜にて2011年1月に展示された(図2参照)。サイズはおよそ、7、7、4メートル(奥行、幅、高さ)だった。
当システムは、透明の彫刻のような、不可視構造を内包するインスタレーション[空間に設置される人工物システム]であり、超指向性音響等の展示物[ディスプレイ]の指向性から構成されていた。「透明な彫刻」とは、ユーザー・エクスペリエンスの観点において、究極的な技術の構築を目指すコンセプトであり、その物理的不在性ゆえに際立った障害物を持たない。そして、それを通じて、明瞭に意図された特定の意義を生じさせることを目指す。空間の内部には、離散的に配置されるディスプレイによって、それらの焦点[スイートスポット]は一つ一つ個別的に配置されていた。換言すると、特異的な一つの焦点[通常、空間内に一つとされるスイートスポット]というものは無かった。
観客は、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、この「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。観客は、その一見何もない空間内において、一定の自由を持ち、ディスプレイの複数の焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めることができた。
1.『Reverence In Ravine』(2012)に記載済みの内容
1.1.多元的映像音響構造のコンセプト
本システムは、透明な彫刻のように立体的に構築される、多元的映像音響の体験を可能にする。それは、サラウンド音響のようなマルチチャンネルスピーカのパンニングの連携による擬似的立体音響ではなく、映像音響ディスプレイの指向性の構造を、造形的にデザインし、そして、明瞭かつ存在感ある映像音響構造を、実世界に建築のように組み立てることによって、提示する。本件における、多元的映像音響構造の定義は、以下のとおり:(1)複数の映像音響ディスプレイを含む、(2)システムが導入される実世界空間は、実質的に座標空間のように見なされる、(3)導入されるディスプレイは、座標空間における座標のように実世界空間内に配置される、(4)かかる座標空間内に構築される座標の連続は、不可視だが実質的に行列のような、映像音響ディスプレイの立体的かつ多元的、または多層的、な構造を提示する。
1.2.多元的映像音響構造のデザイン
透明な彫刻のような、多元的映像音響構造を提示するために、複数の映像音響の焦点(スイートスポット)を、離散的かつ立体的に配置する。任意の空間内に、複数の焦点を効果的に構築するために、(既存の視野角や指向性の広いモニターやスピーカを利用することもできるが)超指向性スピーカ等の指向性が鋭いディスプレイを利用する。例えば、超指向性スピーカは、指向性が極めて鋭く、かつ、遠隔へ音声を伝達できる。これにより、多元的映像音響構造やその交点(焦点)を、実質的な建築の骨組みのようにデザインできる。その結果、サラウンド音響のような擬似的立体音響ではなく、実質的な立体音響構造を構築できる。換言すると、一つの空間内に一つの焦点(スイートスポット)ではなく、複数の特異性の高い焦点を構築できる。本システムで提示される多元的映像音響構造は、格子状の構造である。これにより、不可視の多元的映像音響構造の、観客による、認知可能性や推測可能性を高めることができる(図1参照)。
1.3.多元的映像音響構造の構築
かかる多元的映像音響構造を、実世界へ構築するために、複数の映像音響出力装置(既存のモニターやスピーカ、および超指向性スピーカ)は、すべて天井から吊るされたり、天井に配置される(床下が利用できるなら、そこへの配置も選択肢になる)。それらは空間の周囲を囲むように配置される。多元的映像音響構造が建設される空間には何も設置しない。これにより観客は、自然かつ自由に空間内へ参加できる。その結果、空間内に指向性の構造を作り、複数の特異的な体験ができる場所を多元的かつ明瞭に定義できる(図2、図3参照)。
1.4.インタラクション・デザイン
かかる多元的映像音響構造の意義は以下のとおり。(1)この手法を実施することによって、(事実上空間内には、何も無いため)物理的障害がほとんど無い、直感的かつ自然に参加および体験できる、多元的映像音響空間やインタラクティブ・システムを、設計できる、(2)多元的映像音響構造が可能にする体験は、既存のモニターやスピーカが発する音や光によって提供される、空間全体において共有可能な体験と、超指向性音響構造の焦点に当たる場所で体験可能な、極めて特異性の高い体験を、同時に提供したり組み合わせて提示できる、(3)多元的映像音響構造を認知する時、必然的に、観客自らによる空間への介入が必要になるため、観客参加型の対話性を提示できる。
1.5.ソフトウェアの概要
映像や音響は、リアルタイムの並列処理で生成される、一定の時間(1分)のアルゴリズミック・コンポジションの反復である。アルゴリズムは、C言語で記述され、例えば、openFrameworksをライブラリとして使用し得る。映像音響処理では、ソース(元映像)の再生地点や再生速度(Frame Per Second)を乱数を利用して変更する。出力数は、映像が6、音声が8(内、超指向性スピーカ用は4)である(図4参照)。
1.6.観察結果
『Ravine』の観察を通じて以下の事柄が認められた:(1)視認、(2)聴取、(3)歩行、(4)その他[観客の外見など](図12参照)。文化的連鎖、その伝導性、は明瞭に現れてはいなかったが、観客による関与は受動的ではなかった。彼らは、空間内の「透明な彫刻」の構造や交差点を探りながら、「積極的に鑑賞」していた。[41]加えて、観客活動は、文字どおりランダムでも画一的でもなかった。ディスプレイの構造に沿って歩く者や自発的[直感的]に夏のような雰囲気を楽しむ者もいた。更には、恐れているような表情をして、その不可視空間へ入ろうとしない者も居た。したがって、彼らの活動は、[一見]多面的でありつつも、時として象徴的に様々な関与形態を示していた。
その結果として、『Ravine』は、以下のヒントを著者へ授けるに至った:もし新たなインスタレーションを周到に準備したら、例えば個性的なパフォーマーとして、観客は各々の「行動様式」を有意に表現するかもしれない。
2.新規議論
2.1.映像音響コンテンツ生成処理
映像音響コンテンツ生成処理では、数百ミリセカンドから数秒おきに、ソース(元映像)の再生地点や再生速度を、乱数を生成して変更する。つまり、再生地点や再生速度を、どの時点で、どのような値へと変更するかは、予め確定していないが、その各値の変更(再定義)に利用される乱数の最大値および最小値は定義されている。よって、かかる乱数の上下限値を設けることによって、映像音響が静止したり、過剰に高速化する等の事態を防げる。かかる映像音響処理は、概して述べると、比較的ゆっくりと処理を行う、映像音響のグラニュラー・シンセシス(granular synthesis)の一種である51。加えて、ある時間軸上の一部(例えば、1分間の映像および音響を提示する場合、最初と最後の10秒間)の再生地点等の変数値は、予め確定され得る。これにより、ランダムな映像音響を提示するだけでなく、意図的な映像音響メッセージ(編集)を予め定義することができる。その結果、毎回新たな編集にも関わらず、特定のメッセージも提示する映像音響システムを提示できる。
2.2.映像音響コンテンツの同期処理
かかる映像音響処理は、並列処理であり、かつ、同期されている。その手法は、以下の通り。インスタレーションが設置される当該地域の時刻を、インターネットから取得し、その時刻データに基づき、ローカルネットワーク(LAN)上の複数のコンピュータで、全ての処理を定期的に同期する。これにより、ほぼ同時に、または特定の時刻に、意図的な映像音響操作(編集)を実施できる。例えば、1分のコンポジションを毎分0秒に同時に再生開始をしたり、特定の時刻に同時に終了したり、特定の時刻に任意の映像音響メッセージを表示したりできる。加えて、これらはシステムが設置される現地の時刻に対応するため、時差にも容易に対応できる。
2.3.映像音響コンテンツのソース
映像音響処理ソース(元映像)は、あるアニメーションとして、あらかじめ加工されている。それを上述の通り、処理して出力する。これにより、コンピュータのリアルタイム処理の負荷を軽減できる。アニメーションは、(あらかじめ編集されている映像を利用することも可能だが、)1カット無編集のアニメーションを利用する。これにより、アニメーションの編集を完全に自動化しても違和感がなく、かつ、毎回新たな編集を提示できる。
2.4.無限複数シアターやコンサート
ネットワーク上で同期しているため、映像音響構造のためのディスプレイ装置(モニターやスピーカ)、つまり映像音響構造の規模に、制約はない。一つでも可能であるし、理論上、無限に増やすこともできる。例えば、広告のように数十秒間の処理を反復したり、映画やシアターやアートやエンタテイメント作品のように2−3時間の長時間(潜在的に無限時間も含む)の処理を、予め定義することもできる。
本節は、2012年8月にオーストリア、リンツのブルックナーハウスで展示された、三部作の第二作、『Transparent Sculpture』について論考する。そのサイズは、およそ6、6、3メートルだった(図13参照)。[42]
本システムは、『Reverence In Ravine』のように、不可視構造(「透明な彫刻」)を内包するシステムであり、超指向性サウンド等のディスプレイの指向性から構成されていた。しかしながら、本作は主に超指向性サウンドを主な媒体として利用し、あらかじめ録音されたリニアな様々な都市の環境音源と、音声フィードバック(フィードフォーワッド)・ループを流していた。それは、「[超指向性]サウンドの鏡」のような環境だった。その内部には、離散的超指向性サウンドによって、音響構造を体験するための焦点が、一つ一つ個別的に配置されていた。
観客は、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、この「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。さらに、ある意味ノイズ生成者または演奏者として、様々なノイズを発して、音声フィードバック・ループと通信[対話]することができた。観客は、その一見何もない空間内において、一定の自由を持ち、ディスプレイの複数の焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めることができた。
1.『Transparent Sculpture』(2013)に記載済みの内容
1.1.複雑な透明な彫刻の提示
『Transparent Sculpture』の、主な人工物システム(ハードウェア)は、超指向性スピーカから発せられる音響の指向性の構造である。つまり、超指向性音響のみを利用して、造形的かつ音楽的な多元的音響構造を提示できる。それは、(格子状ではなく)網目状の構造を提示できる。システムの一部として、床に空白のステージを配置する。それは実質的に、「透明な彫刻」のような超指向性音響構造の台座として、また、「人−人工物」間インタラクションが生じるパフォーマンス・ステージとして機能できる。換言すると、本システムは、映像アニメーションを利用しないが、動的人間行動を明瞭に提示できる(図5、6参照)。
1.2.音響コンテンツ
音響コンテンツには、予め録音された任意の音源や、(周囲のノイズや環境音を利用する)フィードバック音響信号を利用できる。
1.3.インタラクション・デザイン
一見、何もない空のステージ上には、透明な彫刻のような網目状の超指向性音響構造が構築されている。音響コンテンツであるフィードバック信号は、音の鏡のように、ほとんどリアルタイムに周囲の音響を反射する。人は、ステージ上を歩き回り、周囲のノイズや超指向性音響に耳を傾けたり、自ら音を発することによって、フィードバック信号、つまり「人−人工物」間の音響関係、の一部になることができる。したがって、参加者自らが発する音を、ほとんどリアルタイムに、超指向性スピーカから(音源である自らとは異なる方角から)響かせることができる。つまり、ステージ上の参加者は、自らの位置に応じて、特異性の高い、様々な超指向性音響を、多角度的かつインタラクティブに聴取できる(フィードバック信号や任意の録音、それらの複合音響など)。
1.4.観察結果
観察を通じて以下の事柄が認められた:(1)発話(描写)、(2)発声(叫び)、(3)舞踊、(4)遊び場に居るかのように遊ぶ、(5)走る、(6)『Ravine』で観察された事(図12、14参照)。
文化性研究に関して述べると、身体的活動に加えて(1)発話(描写)における、観客による言語的形而上学的な活動が、様々な象徴的行動の中でも有意な内容になった。それらは、明らかに、観客自身の個々の言語的背景を参照しながら、特定の言葉を用いていた。[この時点で、すでに何らかの文化性が継承されているようであるが、三類型に従って、より具体的に指摘すると]もしそれが、習慣的に利用されない、ある程度の困難を伴う外国語の利用であれば、それは「参照文化性」と指摘できる。もし習慣的に、とりわけ困難を伴わずに利用される母国語であれば、「習慣文化性」だろう。[つまり]人々は、参照か習慣文化性どちらかの、言語的文化性を提示していた52
(2)発声(叫び)について述べると、類似的文化性に分類されるであろう興味深い含意が観察された。つまり、非日本人は必ずしもそうではなく、時には叫び声を上げる者さえ居たのだが、それに対して日本人は、しばしばなんらかの理由により静寂だったのである。日本人は指示に従いがちという過去の観察を勘案すると、観察された観客は、過去の日本的文化性に文化的に類似する行動をしていたと言える53。[43]加えて、(3)舞踊は、おそらく類似文化性に当たる、巧妙な文化性を提示していた。そこでは、観客構成員は、お互いに腕を組みながら踊っていた。他の舞踊流派、例えば阿波踊りやブレイクダンスを勘案すると、それは明らかに普遍的様式ではなかった。それはおそらく、オーストリア(ドイツ系)民族舞踊の様式の一つだった。また、空のステージ上で、遊び場で遊ぶようにしている人々もいた。彼らは、実際のところ、全て幼児達であり、成人は居なかった。幼児が効率的に歩くことができないために、しばしば横臥しているという習慣的行動を勘案すると、観察された行動は、習慣文化性と指摘てきた54
『Transparent Sculpture』において、習慣だけでなく、類似や参照に当たる文化性を提示する人々が現れ始めた。もっとも、参照文化性は、非母国語の様々な言語の利用に限られていた、または、その利用を通じて過去に関連していた。その結果、こう言えるようだった:もし作品[システム]構造を通じて、言語的行動を制御または演出できるならば、その他の参照文化性も掘り起され、把握され得る;そして、それは、文化非対称性に基づいて、極めて象徴的な行動として解釈され得る(象徴性の強度については、1.11第三段落などを参照)。具体的には、新たな作品は、例えば歌唱行為を通じて、多様な参照文化性を提示し得るように思われた。
それため、三部作の最終作に向かう方向性として、[文化的に]強度を持つ行動になり得る多種多様な「参照文化性」 − 「強度あるインタラクション」 − の調査が、その最たる目的になった。[45]
2.新規議論
2.1.音響フィードバック信号処理
超指向性スピーカの周波数特性は、既存のスピーカに比べると極めて限定的である(例えば、500Hzから5000Hz)。さらに、フィードバック・ループを、超指向性スピーカからそのまま流すと、音声の出力レベルが極めて低かったり、ダイナミックレンジ広すぎたりする場合、ステージ上でそれを聴取する音響対話者にとっての可聴性が低くなるという問題がある。したがって、音響フィードバック信号処理では、リアルタイムに音響信号処理を行い、イコライザーやディレイやコンプレッサーやボコーダー等の音響処理やエフェクトをフィードバック信号に加えることができる。これによって、流れてくる超指向性サウンドの可聴性を高めることができる。具体的には、以下の内容が可能になる。EQやフィルターによって高低周波を除くことによって、出力される可聴周波数帯域のレベルを維持したまま、全体の出力レベルを下げる;コンプレッサーによりダイナミックレンジを狭くし、全体的な出力レベルを上げる;ディレイによって一部の音声出力を遅延させて、ノイズ生成者である対話者自身にとっての(出力される自らの音の)可聴性を高める:ボコーダーによって、わずかに出力の音色を変えて(周囲の物音と差異与えて)、相対的な可聴性を上げることができる。
2.2.観客行動のコンテンツ化
多元的音響構造は不可視であり、それが配置されるステージには物質的に何も配置されないため、本システム内における、人の行動の自由度は極めて高い(事実上、制約は無い)。これは、意図的な、基礎的システム・デザインである。かかる「空白性の提示」によって、より積極的かつ動的な「人−人工物」間インタラクションを促進するための、基盤的機能を提示できる。つまり、即興演奏のように、個々人のアイデアや直感的自発的反応や能動性や創造性を、そのまま実質的なコンテンツとして提示できる。
2.3.想定内外のインタラクション
本システム内の「対話者」は、ステージ近辺にいる、あらゆる人や物を含む。また、観察された人間行動を勘案すると、人は、予想を超えて個性的な反応、超積極性、を提示し得ることが、明らかになった(詳細は『Culturalities』論文参照)。つまり、パラドックスのような表現だが、このような本システムの意義が考えられる:結果として観察される、本システムの想定内および想定外の行動や振る舞いは、予測可能な蓋然性であり、それ故に、インタラクティブ・システムの有意な要素として、導入したり、それに基づく新たな、より象徴的な、インタラクションを設計できる。例えば、「歌唱行為」の様式に基づく、インタラクションの提示を考えられる。そこでは、潜在的に、様々な内容の「歌唱行為」の観察が可能になることを、予測できる(『Data Auditorio』に続く)。
本節は、本稿の三部作の最終作、2013年初頭に作られ2014年9月にオーストリアのリンツ及びギリシャのアテネで展示された『Data Auditorio』において観察された文化性について分析する。それは、ある意味、各々の観客構成員による自己参照的カラオケ・パフォーマンス・ステージであり、それは彼らの、通常多面的であるが、時として垣間見えるだろう象徴性、つまり文化的非対称性、を理解するための空間だった。[45]そのサイズは、およそ、5、5、3メートルだった。
詳細を述べると、『Reverence In Ravine』や『Transparent Sculpture』のように、「透明な彫刻」を内包するインスタレーションだった。しかしながら、個々人の象徴的行動を反映するために、『Data Auditorio』は、一つの超指向性サウンドのフィードバック・ループのみを利用した。またそれは、周囲の物(例えば観客)と関わり合う、生態系ないし連鎖反応する多層的因果関係から作り出される音楽の一種でもあった(生態系的関係についての画像表現は、図15参照)。つまり、『Auditorio』は、高度に統合された生態系[エコロジー]の螺旋構造であり、周囲の様々な物、またはそれらの関係、の間に生じながら、それらを巻き込みつつ、絶え間なく循環する、超指向性サウンドのフィードバック・システムだった。よって、『Auditorio』は、「何らかの周囲の物」と絡み合う連続体の一種であり、しばしば関わり合っている「観客たちの活動」に応じて、超積極的な状態になり得た。その内部には、一つ超指向性サウンド・フィードバック・ループを利用していたため、焦点は、特定の一点にのみ配置されていた。したがって、『Auditorio』は、[既存システムに比べて]小型にデザインされており、個々の観客によるソロ・パフォーマンスを行うための空間だったが、同時に、拡張バージョンとして、『Auditorio』を幾つも配置して超指向性サウンドの森のような環境を作ったり、2チャンネルスピーカを利用するコンサートを行うことも可能だった。
観客は、その空間内で、自己参照カラオケを歌うように、個性的な歌手になることができた。また、何らかのノイズを発することによって、フィードバック・ループと通信[対話]することもできた。その結果、ある意味ノイズ生成者ないしノイズ・アーティストになることができた。さらに[既存システムと同様に]、他の観客達と一緒に自発的に、現実世界内にあるサイバー[人工]世界を探検するかのように、または、『かくれんぼ』遊びに参加するかのように、「透明な彫刻」の存在や編成を、歩き、探りながら、調査ことができた。観客は、一定の自由を持ち、ディスプレイの焦点を、どこで、どの角度から体験するかを決めるだけでなく、どのような歌を歌うかを決めることができた。
1.『Data Auditorio』(2014)に記載済みの内容
1.1.強度あるインタラクションの提示
本システムは、あらかじめ結果が想定可能なインタラクティブ・システムというより、音響フィードバック・システムを通じて、予見不能または予期しないような個性的なインタラクション、つまり、より強度あるインタラクションの提示を試みる。それは、予期せず個性的な、超積極的な、観客行動を誘発し、提示する。フィードバック信号は、リアルタイムに再構成処理され、強度あるインタラクションを含む、対話的な音楽として、提示される。
1.2.インタラクション・デザイン
本システムは、音響フィードバック・システムである。かかるシステムにおいて、全てのインタラクションは、即座に人工物出力(超指向性スピーカから発せられる音響)に反映され、そしてそれは、ほぼ同時に、人工物入力(マイクから入力される音響)へのフィードバックになる。その結果、フィードバック信号の循環システムが確立される。したがって、システム周辺で生じる、様々なユニークな出来事を、即座に音響コンテンツとして、つまりフィードバック音響へ、反映できる(図8参照)。
人間系システムについて述べる。観客(対話者)は、例えば、3つの過程を通じて、フィードバック音響の循環システムへ干渉できる。その結果、音響の生態系(エコロジー)のような、螺旋的または進化的な、関係性を提示できる。
第一過程「聴取」は、インスタレーション内の自らが立つ場所における、音の聴取である。第二過程「配置」は、その空間内における、自らの身体の配置(移動)である。第三過程「音響制御」は、自らの行動による音の生成である。第三過程の具体例は、拍手(クラップ)、足踏み(ステップ)、会話、静かにする、呼吸、楽器演奏、および、歌唱等である。
人工物系システムの過程について述べる。第一過程「入力」は、マイクからの入力である。第二過程「時間構成」は、フィードバック音響信号の時間軸の再構成処理である(フィードバック信号を再構成し、対話的音楽を生成)。第三過程「出力」は、既存のスピーカや超指向性スピーカからの、再構成されたフィードバック信号の出力である。
1.3.インスタレーション・デザイン
本システムの空間(インスタレーション)は、それが設置される空間を座標空間のように見なして構築される。そして、一つの超指向性音響の造形的立体構造が定義される。それゆえ、実世界に定義される音響構造は、その実世界(現場)に依存するが、その構造の立体的編成は、建築の骨子のように明瞭に定義され得る。その焦点は、ある地点において、不可視のシャワーのように、特異的に配置されている(図7、9参照)。
設置されるカラオケまたはソロ・パフォーマンスステージの様式は、マイクスタンドやスポットライトを利用する。これにより、超指向性音響構造の不可視性を、明示的に補完できる。すなわち、一目で分かるような、有意なメッセージを、既存様式の流用とリ・デザインによって、あるアフォーダンスとして、発することができる。その結果、観客による自然な介入やインタラクションを、蓋然的に、誘発または導くことができる。
超指向性音響が、明瞭に聴取されるためには、一定の距離が必要である(「天井に設置されている場合、およそ4メートルの距離が理想的」55)。よって、ある室内に設置される場合、超指向性音響を空間内に反射させることによって、限られた広さの空間を効果的に利用できる。
超指向性音響の聴取をさらに高めるために、通常のスピーカから任意の音を発することも可能である(例えば、ホワイトノイズや何らかの録音)。その目的は、(1)不必要な超指向性音響の反射の相殺、(2)観客による超指向性音への干渉(インタラクション)の促進ないし助長である。加えて、鏡やガラスのような、高硬度の平面素材を設置することによって、超指向性音響をより明瞭に反射できる。
複数の『Auditorio』システムを配置して、大規模インスタレーションを提示したり、既存の2チャンネル・スピーカを利用して、コンサートもできる(図10、14参照)
1.4.観察結果
観察において以下が観察された:(1)ユニゾンやコーラスでの歌唱、(2)ソロ・パフォーマンスでの歌唱、(3)ノイズを発したり物を叩いたりすることによる演奏、(4)ピアノなどの楽器の演奏、(5)抑揚のある発話や描写、(6)抑揚のある発声や叫び、(7)舞踊や遊び場としての利用を除く『Sculpture』や『Ravine』で観察された内容(図12および図14参照)。
文化性研究の観点から述べると、観客による言語的形而上学的活動は、既存の2作品に比べると、より有意な行動となったが、身体的活動は『Sculpture』と比べると[相対的に]静的だった。つまり、舞踊や遊び場としての利用は『Auditorio』において全く観察されなかった反面、言語活動はより具体的かつ多様な歌唱パフォーマンスへと拡張された。例えば、上述の象徴的行動の(1−2)であり、それは参照文化性を提示するものだった。例えば、以下の民族音楽が参照され、歌われた:(古来のアラブ、またはトルコ、またはギリシャの)賛美歌と思われる歌、エジプト人作曲家Sheik Sayed
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Chestnut Tree』(1939)から編曲された)『大きな栗の木の下で』、Jay Livingstonらによる『Que Sera,Sera(Whatever Will Be,Will Be)』(1956)、など。
(3)ノイズを発したり物を叩いたりすることによる演奏について述べると、観客の一部は、鍵を振ったりプラスチック袋を絞ったりして、音を鳴らすことによって、John Cage(1912−1992)によって提案された環境音活動それ自体を音楽とする『Silence』やLuigi Russolo(1885−1947)によって提案された『Art of Noise』等の概念を連想させる、歴史上の前衛芸術家のようなパフォーマンスを行う者がいた56。この行動は、[意図的な参照というより]結果的な類似文化性かもしれないが、重要なことは、参照文化性であれ類似であれ、過去に習うような象徴的行動[文化性]を彼らが実演した、ということである57。逆に言えば、それは「習慣的」行動とは言えないようだった58
(5)抑揚のある発話や描写、(6)抑揚のある発声や叫びについて論じると、観客は個性的な歌手として、抑揚を伴いながら、異なる言語を「習慣」ないし「参照文化性」として披露していた。加えて、発話や発声によって示される、彼らのアクセントや声色の違いも明瞭に聴取可能だった。それらは、もちろん、歌い手によって異なっていた59
したがって、『Data Auditorio』では、参照文化性を、様々な表現の中でも特に、異なる民族音楽として確認できたと言える。文化的自己主張のように実演された、これら参照文化性は、それ自体十分に魅力的で象徴的な物だった。もっとも、文化性分析の観点から言えば、このように言えるだろう:観察されたパフォーマンスの中でも特筆すべき瞬間は、参照文化性が必ずしも、国民国家等の、既存の社会文化的障壁の制約を受けていない時だった。具体的には、『大きな栗の木の下で』を自発的に歌った者は、日本国民でもなければ、日本育ちでもなかった。同様に、『El Helwa Di』を歌った者はエジプト人ではなかった。『Que Sera,Sera』を歌った者はアメリカ人ではなかった。したがって、以下の考察を導くことができる:「参照文化性」は既存の[あたかも存在すると思われている]文化母体を超越しており、故に無縛だった。さて、ここで明らかになった事とは、このような内容である:議論されてきた「文化」や「伝統」、それらの文化的無縛性、と同様に、既存の文化的障壁を克服することは可能であり、その結果、新たな統合的ないし超積極的な種の物 − 超文化性 − を提示できるということである。
結果として、三部作の最終作は、「文化性」の無縛性を実証的に解明する試みになった。それは、例えば、個々の歌手が自分にとっての洋楽を参照しながら、統合的に多様な「参照文化性」を提示することによって、成し遂げられていた。
2.新規議論
2.1.人による超積極的活動の提示
本システムの導入により、人の想定を超える行動、つまり超積極的行動、を誘発するシステムを設計できる。つまり、想定内および想定外の行動を、文化的に予測可能な蓋然性として、インタラクティブ・システムの一要素として組み込むことができる。
2.2.文化性の提示を想定するデザイン
文化性分析の観点から、伝統的行動のみならず、文化横断的な非伝統的行動の提示を予見する、インタラクティブ・システムを設計できる。つまり、利用者や参加者の進化のような変化やそれらの配合を、鏡のように投影するシステムを提示できる。換言すると、より互恵的一体的、そして実際の経験や観察に基づいて設計される、「人−人工物」間の関係性の設計と実施ができる(『Culturalities』論文の結論にも、意義を記載)。
脚注
例えば、合理主義が人間性を特定の形態として定義する時、その定義から外れる者達は自ずと、非人間、不合理、動物等として定義されることになる。彼らはそのように実在する者達だ、と言えるのか。合理主義にとっては、そうなのだろう。
Trevor Levereは2005年にこのように主張した「科学も宗教も一枚岩であった事など無い」。[1]Alvin Plantingaも興味深い分析を行っている「宗教とは[...]現在、ひょっとしたら、かつて無いほどに繁栄している」。[2]
Philip L.Quinnの「宗教」の定義についての議論をここでは参照できるだろう:「宗教を研究する者達の間に、宗教という概念を概念として論じるに必要十分な条件下で分析または定義し得るか否か、についての合意はない」。[3]
その他の宗教性については、[4]や人が関わり得る、例えば葬式などの種類を参照。
ここでは、Max Weberによる1919年の陳述に言及できる:「官僚的な『鉄の檻』は、合理化によって招かれた近代の一面に過ぎない。もう一面は、価値観の分断による『多神教』である」。[5]
このような還元主義では、個人の尊厳である差異[個性]が事実上無視される。例えば、Caspar David Friedrich(1774−1840)による『Wanderer above the Sea of Fog』は、このような均質的「人間」の視点を暗示している。
エディプス・コンプレックスもそうであるが、Sigmund Freudの考察とは、極めて単純に述べると、父親像崇拝への回帰 − つまり、母性的創造性を獲得するための、父性的支配に対する、ある種の思春期的な反抗心である。[6][7]
原理的には、習慣文化性の定義は、人の身体的特徴も含み得る。例えばホモ・サピエンスや「アジア人」という特徴である。この場合、文化性比率(文化性を表す行動の数/全ての行動の数)は、常に観察され得るため、ある一定の割合で維持されることになる(図12参照)。
あるいは、人の無意識下に流れる心理的底流が満潮になっている状態、または、因襲的指導者の影、または、心的外傷の記憶等である。
10Mark Twainは1897年、このようにインドのバラナシを描写した「この町は広大な偶像達の博物館だ − それらはみんな卑猥で奇形、そして醜い」。ここで言われている偶像とは、ヒンドゥー教の神々であった。[8]
11誰かが日本語だと指摘することは当然あり得るが、それは結局、地球的国際的規模での議論である。
12ここでは、1945年のBertrand Russelによる陳述へ言及できる:物質という概念は「主語と述語からなる文章構造を世界構造へ移行させたことによって生じた、形而上学的な誤謬である」。[9]
13後に提示される「文化性」の定義を勘案すると、「文化」とは文化性の集合ないし波、または、過去から発信されてきた事実のシステムであるかのように継承されている様式、と定義され得る。
14宗教についての議論とは、必ずしも「神」の本質のような不合理なものについての神学的探求ではない。ここでは、James Frazerによる「呪術」やEmile Durkheimによる「トーテム」、つまり、進化的社会知性論や社会的神聖性原理を思い出す必要がある。[10][11]
15Rabbi Wayne Dosickは、ユダヤ教徒の生活についてこのように述べる「ユダヤ人の歴史全体を通じ、一枚岩な、片務的取り組みによるユダヤ教生活などというものは無かった」。[13]
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対立のことである。[14]
17バクティヨガは、紀元前5世紀ほども昔に、バガヴァッド・ギーターによって初めて導入された修行である。[15]
18阿弥陀如来信仰については[16]を参照。新教(プロテスタンティズム)との類似性については[17]。
19中国史における道家の意義については、[19]を参照。
20ハディースやコーランで禁じられている通り、非偶像的であることはイスラム芸術の顕著な特徴である。しかし、そのような想定は「誤解を招くような結果」や、彼らの創造性が「完全に宗教的衝動に駆動されている」という「フィクション」、を招き得る。[20]
21さらなる歴史上の時代についての考察は[24]を参照。
22Andrew Cunninghamは1991年に、以下を明らかにした:「異なる人々が、異なる神の理解を、この神中心の研究[である自然哲学]へ持ち込んだのである」。[25]さらなる例は:大英帝国の植民地主義へ反応するヒンドゥー・ヴェーダの宗教改革運動、[15]アヘン戦争を国家危機のように捉えた後に起きた明治維新そしてその後の日本帝国主義への道のりなど。これに関し、Joshua Fogelは1989年にこのように翻訳した「[高杉晋作]が魏源の著作が中国において絶版であり、中国人自身なんとか外国人を自国から追い出そうと準備をしていないことに気づいた時[...]、高杉は日本の将来についての教訓を得たのだった」。[26]
23これらの概念は、他の伝統に属する者にとっては、全く理解を超えるものだったとも言えるかもしれない。
24ここでは、支那[中国]の対照的な思想、三教合一、について言及できるだろう。三位一体論も三教合一も不合理性あるいは統一性を表す物である。前者は相対的に合理的宇宙へ降りてくる外部世界の統一的存在を志向して信者に神秘的昇天を求めるのに対し、後者は「この」世界の存在の統一性を志向する。例えば、『虎溪三笑』は生き生きとした地上の三人を描写する。彼らはそれぞれ、儒教、道教、仏教に属する。
25潜在的無限は、現実的無限ではなく、潜在的可算性ゆえに有限である。
26例外は避け難い物である。例えば、Nicholas of Cusa(1401−1464)。彼は、「対立の一致(coincidentia oppositorum)」という考えを提示した。[30]
27Giordano Bruno(1548−1517)は、処刑される前にこのように、おそらく的を射た表現であるが、述べた:「おそらく、私を糾弾するお前こそが、糾弾されている私以上に恐れを抱いているだろう」
[31]Galileo Galilei(1564−1642)は、1633年に「激しく異端的である疑い」を通告された。[32]彼らの時代、宇宙とは特定の形、有限、地球中心的等でなければならなかったのであり、たとえ彼らが神の御心に由来するはずの宇宙のデザインを調査していたとしても、異端宣告を受けた者は、致命的破門の対象になり得たのである。
28カントールは、現実的無限が「創造された世界、つまり[神]依存的な物の中で生じる時」に現れると述べた。しかし、彼はまた、パラドックスのように「それは明瞭に限定されている」とも主張した。
29つまりカントールは、現実的無限を数学的に定義しながら「神における、完全に独立した外部世界の存在」のための余地を残している。[33]彼は結果として、神学的探求のように、「絶対者」は被造世界から独立し、現実的無限の一部は有限であると強調したようである。
30例を挙げると、有限主義の一つとしての科学があるが、他の伝統における科学も、「宗教」と「科学」の対立を超えて、考察の対象に当然なるだろう。比較芸術の観点では、西洋美術史に全くスムースで円滑な、つまり無限的に、描写するアーティストが居なかったわけではない。例えば、Rembrandtvan Rijn(1606−1669)。しかしながら、キリスト教の伝統における美学的緊張についても同時に考察を加えなければならない。それは、例えば第二ニカイア公会議が述べた内容である:「イコンは、聖典の記述がそうであるように、描かれる。それは美学的形態の真理である」。[39]
31『古事記』は、明治維新から第二次世界大戦終戦時まで、『神代』の時代の資料だった。[36]
32例えば、ゴリラの意見に耳を傾けてもいい。
33数学が思索的だったとしたら、文化性研究もそうなるだろう。
34後期近代のアーティストであり、東洋的表現の流用者であるPaul Gauguin(1848−1903)は、『Vision after the Sermon』について、このように述べていた「かなり不恰好だが、面白い。好きだ。こっちの教会にやりたい。当然、彼らは欲しがらないだろう」。[39]
35反体制や異議を申し立てる立場など、逆の立場でもいい。
36例えば、Clifford Geertz(1926−2006)は、1973年にエスノグラフィーに関して、このように述べている「問わなければならないのは、それらの含意は何かである。ある出来事やその作用が言わんとしていること、それは何なのか、嘲笑か挑戦か、皮肉か怒りか、上流気取りかプライドか」。[38]
37その理由は、例えば、彼らが、それが初めてでないと気づくため、また、人の行動は決して文字通り理性的ではなく、本来的に自発的でもあるため、である。
38論考内容を明確化するため、また本稿のスペースの都合上、技術的詳細は省いている。
392012年8月のバージョンでは、フィードバックに加えて、リニアな環境音[録音]が同時に流れていた。続けて、音楽的フィードバック・ループを確立するためのリデザインを行なった。これが『Data Auditorio』の原型になった。
40大抵の観客は、英語を話していた。しかしながら、それが彼らの母国語であるということは当然疑わしかった。つまり、そこには中国語話者等も居たのである。加えて、一つの言語以上を話す人々も観察された。
41言うまでもなく、これは類似文化性の指摘であり、ステレオタイプがなぜ生じるかは本稿の論題からは外れる。
42例えば、「異常な事態」としての、子供の呼吸困難についての議論を参照できる。[44]逆に言えば、呼吸のために頭部が正しくサポートされているなら、幼児が横になっていること自体はありふれたことであると言える。
43デザインの詳細については[45]を参照。
44これは、コンサートバージョンでの出来事だった。非西洋の伝統についても、ここでは言及できるだろう。
45参照文化性であったとしても、驚くべきことではない。更に述べると、この観客たちは芸術学についての学位を持っており、間違いなくある程度美術史を知っていた。
46更に述べると、利用されていたマイクは、ShureのSM58や55SHだった。典型的なボーカルマイクである[演奏録音用には適さない]。
47アクセントや声色の違いは、おそらく、各々の継続的な特定の言語利用に由来する。これについ
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の]音韻システムが、主たる言語的民族性の創造者であるということは、驚くべきことではない」。[46]
48換言すると、人は、表層的な「西洋」に対する「東洋」、あるいは「科学」に対する「宗教」などの定義に拘束されずに、参照により無縛になれる、ということである。
49業[カルマ]のように、結果的に認識されることになる「文化性」と格闘することは、ある種の未来の行為者、科学者など、にとっての重荷になる。安全弁として、意味のないことであるが述べると、もし超時間的二項対立的論理(真・偽)に基づいて、何らかの理由で、何かが文化性を実演すると指摘されても、それは偽である[文化性は進化し得るため]。
50将来、何らかの有限主義が本稿を異端や他者などと呼びながら攻撃し始める時、それは結果として文化性が適切に定義されており無駄な物ではない、ということの証明になるだろう。なぜなら、人間の無力さ又は不可避性として、そのような振る舞い自身が、彼らの文化性が決定的に継承されていることの証明になるからである。これは預言や皮肉や侮蔑などではない。というのも、過去のある地域において、すでにそのように「攻撃」された経験を持つ者がいたようなのである。[47]
51グラニュラー・シンセシスとは、あるサンプル(ソースとなる録音、レコーディング)を、さらに細かいサンプルへ分割し、それら分割されたサンプルを、再構成する音響合成手法である。
52大抵の観客は、英語を話していた。しかしながら、それが彼らの母国語であるということは当然疑わしかった。つまり、そこには中国語話者等も居たのである。加えて、一つの言語以上を話す人々も観察された。
53言うまでもなく、これは類似文化性の指摘であり、ステレオタイプがなぜ生じるかは本稿の論題からは外れる。
54例えば、「異常な事態」としての、子供の呼吸困難についての議論を参照できる。[44]逆に言えば、呼吸のために頭部が正しくサポートされているなら、幼児が横になっていること自体はありふれたことであると言える。
55利用されたRSF社のSpotDap450の取扱説明書による。
56これは、コンサートバージョンでの出来事だった。非西洋の伝統についても、ここでは言及できるだろう。
57参照文化性であったとしても、驚くべきことではない。更に述べると、この観客たちは芸術学についての学位を持っており、間違いなくある程度美術史を知っていた。
58更に述べると、利用されていたマイクは、ShureのSM58や55SHだった。典型的なボーカルマイクである[演奏録音用には適さない]。
59アクセントや声色の違いは、おそらく、各々の継続的な特定の言語利用に由来する。これについて、Marguerite MacDonaldによる1989年の分析を参考にできる:「[先祖の言語からの影響としての]音韻システムが、主たる言語的民族性の創造者であるということは、驚くべきことではない」。[46]

Claims (1)

  1. 任意の環境内にいる利用者の行動に起因して発生する音を含む前記環境内に響く音を集音するマイクと、
    前記環境の下方、側方及び上方の少なくとも一つに設置され、前記マイクが集音した音 を前記環境内に出力する複数の超指向性スピーカーと、を備え、
    前記複数の超指向性スピーカーは、
    それぞれ、出力音声の指向性の方向が、90度未満の角度で他の前記超指向性スピー カーの出力音声の指向性の方向と交差して、前記出力音声が出力されて一定の距離を経て 前記環境内に利用者が該出力音声を明瞭に聴取できる場所であるスイートスポットを複数形成し、
    前記複数形成されたスイートスポットは、
    前記利用者の行動に起因して前記利用者の近傍のスイートスポットにおける音によって、前記利用者の次の行動を誘発することにより、前記利用者を前記複数形成されたスイートスポットの配置に沿って導くものであり、
    前記利用者の行動は、
    発声、歩行、走行、拍手、足踏み、及び横臥の少なくとも一つを含むことを特徴とする超指向性スピーカーシステム。
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